歴史と批評の関係

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ドミニク・ラカプラ『歴史と批評』を再読した。およそ3年ぶりぐらいでしょうか。最初に読んだときはレポートのためだったが、結局使わずに放置されたのでした。今読み返すと、歴史学の外部から見えてきたものがラカプラの視点と重なって共感(もしくは疑問)を得る部分がけっこうあった。

今回読むきっかけとなったものが「ナラトロジー」、つまり物語論に関する興味からだったが、登場する歴史家や用語に最初に読んだ頃考えていたことを思い返して懐かしさを覚えた。「でた~『モンタイユー村』!!なっつかし~」とか、かなり脱線気味。



さてこの論争的書物は歴史と文芸批評をつき合わせて、歴史記述における主観性と客観性のよい部分を何とか抽出できないか、と模索するような綱渡り的議論が展開されている。そこで主要な分析対象となるのが文学作品と歴史学との関係。

歴史学において、文学はたいてい、舞台背景として登場する社会の二次史料的価値しか使えない、と実証主義者に排除されてきた(つまり、そんなことをするくらいなら警察調書なんかの一次史料にあたればよいではないか、とする意見)。

だが、本書が提起する文学の利用は、精神分析学的な「転移」の問題として扱うことによって、文学の「対象」が反復/置き換えをふんだんに活用し、それがいかに受容されたか、という解釈・構成・文体の問題を引き出すことにある。いわば構造主義的な「言語論的転回」の一形態だろうか。歴史記述もまた一つの物語の構造を持ち、大衆の受容を期待するものである以上、批評的読解は避けられないというわけだ。

文学における「転移」をいくつも感じ取ることができた作品といえば、私は三島由紀夫の『金閣寺』を思い出す。それは主人公溝口が金閣寺に対する愛情の形を反復・拡大するかのように展開する「転移」である。彼の友人柏木は、内飜足(ないほんそく)を患いながらも、遊郭の女はこの奇形の足を愛しているのだと、そして溝口自身も柏木の吹き鳴らす尺八の美しさを、内飜足によってもたらされるものであると考えるようになる。「俺はかくて、世間の「愛」に関する迷蒙を一言の下に定義することができる。それは仮象が実相に結びつこうとする迷蒙だと」。この言葉に示されているように、仮象(尺八を吹く場面では「認識」と語る)が実相に結びついたそのとき、物質は消滅の憂き目にあうのである。溝口にとって金閣寺は憧れの、完全な「美」として存在していた。しかしそれ故に現実の金閣寺は「美」から遠く隔たってしまう。果たして溝口は金閣を焼くことを決心する・・・。

閑話休題。さて、批評的読解の視点は美術の分野にも密接に絡んでいるものだろう。作家や作品の情報が消化不良に陥るほど与えられる実証主義的美術史はむしろ論の妨げとなるし、形式だけを抽出した美学的言説も空虚になりがちである。

ただ、ラカプラの議論がこの両者の止揚にあるならば、それなりの新しい方法論として提示されるべきところだが、彼はそれを構造を示すことで「ほのめかす」に留まっている感はある。方法論的第三項の登場はなく、バランスの問題、もしくは彼の文学的挑戦の「衝撃」そのものが本書の醍醐味と言えるのかもしれない。もちろんラカプラは現役で活躍している研究者であるわけで、次の著作にその展開を見ることができるのを期待したいところだ。
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by jaro050 | 2005-01-04 01:30
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