痕跡展の残した課題

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東京国立近代美術館(東近美)で開催中の「痕跡 ―戦後美術における身体と思考」展を訪れた。一通り会場を回った第一印象は「痕跡というテーマに基づいて集められた作品リスト」というもの。痕跡という漠然としたテーマに促されて作品を見ると、なんでも痕跡だよね、なんて安直な感想がいたるところで噴出。作品一個一個では興味を引かれることが少なくなかったものの、戦後美術を「痕跡」という言葉で回収しようとする政治的意図を感じた。





あとあとカタログを読んでわかったことだが、この展覧会は京近美の尾崎信一郎氏の企画によるものだった。意図はつぎのように要約できるだろうか。つまり、パースが分類したイメージの三要素(類像〈icon〉、指標〈index〉、象徴〈symbol〉)のうち指標に注目し、モダニズムが重視した視覚の効果によって語られがちな戦後美術を、因果関係に基づいた「痕跡」を取り上げることで新たな読解の可能性を示唆する。この基本姿勢を維持しつつ、日本の「具体」派の作品を中心として70年代前後の美術を周辺に配置。それらをまさしくインデキシカルに「表面」「行為」「身体」「物質」「破壊」「転写」「時間」「思考」という八つに分類し展開する。尾崎氏の論文では最後にデリダの「差延」と接続してモダニズムの称揚する特権的な「現在性」を批判し、さらに可視性をも反省的に捉えようとしている(これはデリダがルーヴルで行った『亡者の記憶』展に基づいている)。

簡単に言ってしまえば、芸術作品が目と手によって生み出される中で、今までは目の役割にあまりにも重点が置かれすぎていたが、今回は手(ここでは手のみならず体)に注目してみよう、ということになる。いわば「視覚批判展」というわけだ。ロバート・モリスの《ブラインドタイム・ドローイング》(目をつぶって紙にグラファイト粉を擦り付けた作品)が出品されていることがこれを意味している。だが体系化を強引に進めたために、疑問点の残る出品作が多数存在したのも確かである。ロバート・スミッソンの《グルー・ポア》(粘性の高いタールを斜面からこぼす様を写真に残したもの)は、ドキュメントという点では痕跡だが、尾崎氏が言うような「イメージの劣化」が意図されているとは言いがたい。

もちろん企画者も「検証の不徹底」を認めたうえで、「痕跡としての美術」の大枠としての輪郭を描くことを目論んだわけだが、どうも順序が逆転している印象を抱かないではない。論の展開上「具体」派の作品に詳細な注記がなされているが、他の作品にはそれほどの熱意を感じない。それゆえに半ば強引さを感じてしまうのである。むしろ「具体」を徹底的に分析するか、モダニズムの言説から抜け落ちた70年代の動向を考察するか、といった各論を先に展開するべきではなかったか。これらの検証なくしては「痕跡」がもつ射程が具体性を帯びることがない。「痕跡」の用語によって纏められるにせよ、作品個々のつながりが模糊として浮遊してしまうのである。


この展覧会はある意味意欲的なものだったが、二種類の来館者に不満を残す結果となったのではないか。現代美術に関心のある者にとっては情報量や接続に不満を抱き、それほど関心がなくたまたま訪れた者にとっては、なじみのない作家の情報を得ることに躍起になって、終いには「ふーん、どれも痕が残ってるね」と通りぬけてしまうしかない。フリードが擁護したモダニズム芸術の特性、つまりどの瞬間を切り取っても完全に明示的であることは、展覧会の展示には都合がよく、観者にも比較的分かり易いものである。それに抗するかたちで登場した作家たちを取り上げるわけだから、作品の検討と展示方法に第一の重点が置かれてしかるべきなのだ。これは口で言うのはたやすいが最も難しい問題である。だがこの点を解決したとき、ようやくにしてこれら「痕跡としての美術」が受け入れられるのではないだろうか。
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by jaro050 | 2005-02-06 23:05 | 展覧会報
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