エイヤ=リーサ・アハティラ ―物語と映画

物語はラプラスの悪魔を呼び寄せる。
厳密に構成された物語であればあるほど、そうである。

ラプラスの悪魔――それは全ての物理法則を把握し、あらゆる物質の量、運動を瞬時に計算しつくしてしまう魔力を持っている。この悪魔の視点に立てば、宇宙の動静を過不足なく予知することができるという。いわば古典物理学が生み出した予定調和の神である。

ときに物語は初まりと終わりの構造を持っている。物語である以上、この構造抜きにしては成立し得ないとさえ言っても問題はないだろう。さらに「よい物語」とは、始まりからすでにいくつかの意味を内包しつつ、予言的にフィナーレに向かって高潮していく形を有している、と誰もが一度は思い描くはずだ。「なに一つとして無意味な描写は存在しない」と。物語作者は物語を組み立てる作業において、言葉や文字が象徴的に機能するように選択し、筋書きに組み込んでゆく。そのとき物語作者は、ラプラスの悪魔の住処を知らず知らずに建てているのである。

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前置きが長くなってしまったが、先日森美術館の「ストーリーテラーズ」展に出品されていたエイヤ=リーサ・アハティラの映画は、そんな閉塞した「大きな物語」の構造に亀裂を入れる手法をこころみていたように感じられた。「物語」というテーマで集められたこの展覧会の出品作家(特に映像作家)の多くが「円環する物語」を描いていただけに、彼女の存在がひときわ目立っていたように思えたのだ。彼女は物語の構造にマルチヴィジョンという不確定原理を組み込むことで、ラプラスの悪魔に抵抗している。

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[エイヤ=リーサ・アハティラ《コンソレーション・サービス》 1999年]





今回出品されていた作品は1999年のベネチア・ビエンナーレに出品された《コンソレーション・サービス(和解の儀式)》である。題名の通り、離婚調停中の若い妻が夫を亡くし、その後超常現象的に現れた夫と礼の儀式をすることで和解をする、というものだが、その話は映像が分離していることで異様さを増している。

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[エイヤ=リーサ・アハティラ《コンソレーション・サービス》 1999年]


近年ではトリプティックのような三連ヴィジョンを使ったりとマルチ化に拍車がかかっているが(例えば02年作の《ウィンド》や《ハウス》など)、この99年の作品はダブルヴィジョンを並列させて、片方では物語を進行させ、片方ではその視点からもれる周辺の情景を写し出している(アハティラによると、右側はストーリーを、左側は風景・感情・象徴性を描き出しているのだという)。

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[エイヤ=リーサ・アハティラ《ハウス》 2002年]


その効果のひとつは、映像を二重化させることで、物語に感情移入することができなくなるということだろう。矩形のヴィジョンを意識上取り払うことで、私たちは物語に侵入することができる。だが複数の画面があることで、私たちは常に視点を交互せねばならず、集中力は減退することになってしまう。

さらに物語に関係してこない映像は人間の視点であるとは必ずしも言い切れない。物事が起こっているなかでも、取り残された場所が長まわしで写し出されていることもある(キッチンに放置された皿など)。おそらくそれを見ているのは作者であるアハティラ自身だろう。それゆえに象徴性が付与されているのである。物語の中でも、「子供はこの話を書いている人に預けてあります」などと半ばコメディのように作者アハティラを指す会話が差し挟まれている。こうした外部性は、物語を進行する役者と、それを描く作者の二重性というポストモダン的な表現の典型である。

問題は、こうした効果によっていったい何が浮き彫りになっているのか、ということに尽きるだろう。緻密なまでの技術力はおそらく一級の映画作家といってもいい。その手法はまさにポストモダン。とはいえ物語の脱構築、などという言説はすでに聞き飽きた。では彼女はポストモダンの職人ということなのだろうか?

私が興味を抱いたのは、その物語の扱い方である。小説の場合、二つ以上の物語をかたる場合には前後に配置するか、もしくは構造を分解して互いに挟み込む手法をとるしかない。意味の通る文節までを破壊するとなると、すでに物語ではなくなってしまう。一方映像は鑑賞者の状況を無視すれば、同時に語りだすことはできる。なかば二重音声(ポリフォニー)的に。アハティラのダブルヴィジョンは、その二重性が表層の物語(筋書き)と深層の物語(象徴)とをシンフォニーのように映像で組み合わせる意味で、交響楽的である。映像という楽曲は、分解して聴くこともできれば、合わせて聴くこともできる複数の層を成している。


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[エイヤ=リーサ・アハティラ《ウィンド》 2002年]


この層が、アハティラお得意の表現である女性心理の恐慌を描き出すのに一役買っている。鑑賞者には二つの映像のシンフォニーがなかなか聴こえてこない、という意味も含めて。《コンソレーション・サービス》は、どのように外部化されていようとも、主軸は妻の物語にある。彼女がいかに夫と仲違いし、いかに夫と死別し、いかに和解するか――。左側のヴィジョンの象徴性は、アハティラの視点であり、かつ妻の感情である。この作品は、妻の心理を様々な装置によって観察し、分析するマルチスクリーンのようなものなのだ。

ラプラスの悪魔はこの中央監視室で分析を開始する。彼に答えは出せただろうか?

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以下のサイトで《コンソレーション・サービス》の最初の部分を見ることができます。クイックタイムで再生できます。

http://www.medienkunstnetz.de/works/consolation-service/
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by jaro050 | 2005-05-04 18:38 | 展覧会報
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