リアル・オン・デマンド

一枚の写真がある。
「ああ、部屋の中を撮った写真ね。ちょっと散らかっているかなぁ。」
なんて言葉が漏れる。
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次の写真。これも室内。なんだかハサミやらお鍋やらが宙に浮いている。いやいや、投げつけられた家庭用品の瞬間を捉えているんだろう。

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でも待てよ、よーく見てみよう。この写真、何か鮮明すぎる。生活感が漂っているけど、どれも傷やシミひとつない、しかもマットでチープな仕上がり。

「!!」 たぶん、気がついたでしょう。

これらの写真に撮られた物は、どうやら「作られた」もののようだ。材質からして、紙か何かで。

これらはトーマス・デマンド(Thomas Demand)というドイツの写真家の作品。名が売れ出したのは10年ほど前かららしい。それから精力的に活動を展開し、とうとうMOMAで個展を開くほどになった。

前回のヴェイヤンと比較すると、似ている部分と異なっている部分がそれぞれある。似ているのは、制作に際して念入りに「準備」をし、架空の世界を作り上げた後でそれを作品として制作するスタンス。これはどちらも写真というメディアを使っている点で関係してくることかもしれない。異なっているのは、デマンドの写真には人間が介入しないこと。全て作り物で現実を模倣しつつ、そこに現実の雰囲気をすり込ませる手法だ。

二人を比較する上で、ちょっと以前から考えていたことが思い浮かんだ。それは再現における「アンドロイド」と「サイボーグ」。

アンドロイドは、andro(人の)+oid(~の性質を持つ・~に似たもの)という単語の合成語。機械などの人工物で全てを作り上げ、非常に高い精度でその特徴が人間に酷似しているものを言う。

一方サイボーグは「cybernetic organism(人工頭脳学的有機体の意)」からとられた語で、人間の身体を補助、強化する意味で使われる。実は僕らが日常で使っている眼鏡や差し歯、補聴器などはこれに含まれるんです。ということは現代の人間はすでに「サイボーグ化」されているってことですね。…話がずれましたが、ここでの重点は「人間の一部が残っていて、他が人工物である場合、それはアンドロイドではなくサイボーグ」であること。たとえ指先だけでも原型が残っていれば、意味上「サイボーグ」ということです。そう便宜的に区別しておきます。

そう区別しておいていきなりですが、この二つの間にどれほどの差異があるんだろうか。つまり絵画的に言えば、初めから画家のイメージで描かれた油絵と、コラージュ作品の違い。シュルレアリスムやキュビスムが登場した頃は、決定的な差異が横たわっていたけれど(ピカソのコラージュで盛んに言われた「現実の介入」等)、画像処理の技術が進んで今やあらゆるものが再現可能に近づいた昨今、この境界線もまた曖昧になってきている。作為なのか否かの度合いはどのように表現の質に関わっているのか。

ヴェイヤンとデマンドの作品を比べてみるときに、この作為性の曖昧さが表面化する。そして「リアル」なものとは何か、ということも。サイバー空間に慣れ親しんだ現代人の感覚が、二人の作品では問題化されているんじゃないだろうか。ではその問題をどう捉えるのか。私はまだその回答を出せずにいる。
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by jaro050 | 2005-05-14 21:39 | 美術寸評
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