「冷忍」と呼ばれた人

「神田の三省堂で
    シンポジウムがあるんだけど、
           どうです、来ませんか?」
「ええ、ぜひ。」

b0041761_16345025.jpg こんな軽いノリで聴きに行くことになったイベントだけど、神田は御茶ノ水、古書店とスポーツ用品店が立ち並ぶこの界隈で、「レーニン」についてのシンポジウムが開かれるとは、あまりに時代錯誤的。いや、この場所だからまだ許される、ということか。

 もちろん主催者も「今さら」という反応は分かっていて、副題に「あるいは反時代的レーニン」なんて自虐的(?)フレーズをのせている。

確かにねぇ、
今になってレーニンを「積極的に」押し出す
ともいえないわけで、
そこら辺が彼らにも難しいのかもしれない。

いずれにしても
「一橋大の院生」が企画したというので、
どんな発言するんだろうと興味があったし、
僕も5,6年前に教養としてかじってみたことがあるだけに、
懐かしさから参加してみました。




さて出席してみての印象は、
レーニンの「外部性」という点が
強調されていたこと。

彼の功罪はさておき(無限円環に陥るので)、
西欧思想と比べてレーニン思想は特異な位置にあり、
それが現在においても「読み方によっては」
効力があるだろう、と参加者は言いたいようだった。
だから採り上げる著作が『何をなすべきか』とか
『哲学ノート』になるんだろう。

一般に理解されているレーニン像から一歩抜け出そう
としているのは伝わってきた。
昔「冷忍」(冷酷で残忍な)なんて言われてたみたいだし、
70年代以降は徐々に言論の場から消えうせていく一方
だったようだし。(なんか扱いがサルトルと似てるなぁ。)
それを反映してか小泉義之さんはニヒリスティックな立場だったかな?

中沢新一さんはしきりにレーニンの文体を強調し、
レーニンの外部性は東洋に起源があると主張していた。
カザンという西洋と東洋の境界の地で暮らした経験が、
さらに彼の祖母がユダヤ人だったという経歴が、
彼に影響をあたえているだろう、と。

とまれ「やることに意義がある」的なイベントだった。
一貫して異様な閉塞感が漂っていたのは、そのせいだろうか。
観客の質問もなんだか全体的テーマに対するものじゃなくって
「人気者」中沢さんへの個人的質問が相次いだ。
場を読め聴衆よ!小泉さんがうつむいているぞ!
左端のおっちゃんは(あ、長原豊さんです)ふて腐れているじゃないか!
司会の高橋順一さんが困っているよ!
そんな僕も助け舟ひとつださないんだけど(小心者)。

最終的な感想を長原さんの一言で(うろ覚え)。
「レーニンが啓蒙主義的だったというよりも、啓蒙されたがっている人たちがよってたかってレーニンを祭り上げているのだろう」。

考えさせる言葉でした。
思想や宗教の一端はそんなものなんだろう。
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by jaro050 | 2005-09-25 15:22 | 歴史
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