見るということ

人間の視覚認識はここ200年ばかりの間に劇的な変化を遂げた。その原因の矢面に立たされるのが写真であるのは衆目の一致するところだろう。19世紀半ばに発明されたこの装置が視覚から認識される領域の外部をさらけ出したために、当時の人々は驚嘆の色を隠せなかった。ある人はその外部にあるものを「視覚的無意識」と呼びもしたが、発明されて30年もしないうちに写真は一般に認知されるようになり、二つの大戦を経ると大衆に享受されるまでに流布していった。そして今や、あふれかえる写真イメージで世界は満たされている。

b0041761_18252896.jpgジョン・バージャーという人がいる。彼は美術批評家であり脚本家、ドキュメンタリー作家でもある多彩な人物だが、一貫して「見る」ということを考え続けている人だ。その基盤はマルクス主義芸術論、特に大衆論からの批評活動にある。今年8月に再版された『見るということ』(ちくま学芸文庫)という評論集に収められた論考には、必ずどこかに大衆への視点が隠されている。例えば動物園の動物たち、またディズニーに登場するキャラクターたちに「大衆」を重ねるといった具合に(もちろんその語調は厳しく鋭い)。そしてこの主題と密接に関係するのが写真である。





大衆は近代的都市、つまり近代資本主義の産業構造によって生み出された。工場労働者や商工業者たちが密生する都市は、産業の盛衰によって目まぐるしく姿を変えていく。その変遷の中で、写真は人々の記憶の代わりにその情景を記録する。バージャーはソンタグを引用してそれを「独占資本主義の神」と呼んだ。キリスト教権威の衰退と機を一にして登場した写真は、黎明期にはその客観性ゆえに倫理的特質を付与される向きがあった。ここでバージャーは面白いことを言っている。記憶は贖罪の行為の暗示である、と。「思い出すことは認めることと、忘れることは非難することとほとんど同義となる」。だが写真の登場から人はこの贖罪にもかかわらず、日和見主義的な態度を身につけた。忘却への非難を、写真に全て押し付けることによって。そしてカメラは忘れるための道具となった。

だがこれは写真の「使い方」の一例であることを忘れないようにしよう。写真は判断しないし、解釈を加えることもない(それが合成などで加工されていないことを前提として、ではあるが)。むしろ判断するのは人間の「見る」という一連の体系が成すものである。それを記憶といい、バージャーは「第三の眼」と呼んだ。記憶体系は人間が視覚から獲得された情報を取捨選択し、必要なものだけを保存する。心理学的に正確を期すれば、残りは無意識の器に保存されるのだが、写真は第三の眼が取りこぼしたものもあわせて提示するのである。しかし写真はあまりにも一面的過ぎる。いかに人間の記憶から取りこぼされたものを持っているとはいえ、現実はそれで全てではない。現実と写真がイコールで結べないのは子供でも分かるはずだ。ボルヘスの言う世界が全て圧縮された「アレフ」でもあれば別だが。

ともあれ写真は人間の認識から漏れる情報を持つが故に、そして画像それ自体には判断が加えられていないがために、大衆を撮るには最適のものだろう。大衆を研究したオルテガ・イ・ガゼットによれば、大衆とは「労働者」の群衆ではなく、「平均人」のことを指すという。これに従えば、大衆を撮ることは「平均人」を撮ることになる。バージャーのザンダー論はその意味で面白い。スーツを着た田舎の農民がその階級を代表しているのはなぜか?明快な回答が読者に返ってくることだろう。

最後に一言。この評論集の中にはフランシス・ベイコンとディズニーキャラクターを比較した論考が載っている。大半はベイコンの説明に終始しているし、特に目新しい話題も挙がっていないのだが、疎外状態という共通項をディズニーにも見ている点が面白かった。


「もしディズニーのアニメを観る前に『そこには他に何もない』といったキャプションを読み、それを信じれば、その映画はベイコンの絵と同じくらい、私たちを恐怖に陥れるだろう。」

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by jaro050 | 2005-10-03 18:27 | 美術寸評
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