掟の門

カフカの短編に「掟の門」というものがある。
話はいたって単純だ。
ここにやってきたある男が、この門を通ろうと
門番に掛け合うのだが、どうあがいても通してくれない。
何を言っても「今はだめだ」という。

だが門番は無理やり入ることを禁止してはいない。
とはいえ門番は屈強で、
自分の後ろにはさらに強靭な門番が控えていることを
ほのめかす。
その脅しに男は怯えきって通ることができない。

「今は」という言葉に男は光明を感じ、
いつとも知れない通行の許可を待ち続ける。

歳月は流れ、男の寿命は尽きかけていた。
その時門番は言った。

「他の誰ひとり、ここには入れない。
この門は、おまえひとりのためのものだった。
さあ、もうおれは行く。ここを閉めるぞ」

b0041761_23404242.jpg




――――――――――――――――――――

アレゴリーはそもそも外部の物語とは関係がない。
この物語自身では、
掟の門の先に何があるかは分からないし、
男のためのものである以外に門に意味はない。
男が門を通れず命を落とした、ただそれだけである。

意味を付与し、何か別の物語を代入するのは
我々の自由である。
では自由ついでに何かを当てはめてみよう。


それはなぜ掟(Gesetz)とよばれるのか、
ということに関するものだ。
一つ考えられるのは、それが掟=法だということである。
国家を維持するためには、
国民が守るべき法を定めることが先決だ。
そうしなければ、その国は無法地帯と化し、
政府が機能しなくなる。

法は破られるためにある、などと冗談でいわれるが、
破られた時点でそれは法ではなくなる。
皆が守ってこそ法は機能するのである。

ではなぜ人は法を守るのか?
まず第一に生活の安全を確保するためだろう。
そして第二に、国を維持するためである。
法は国家にとって一つの権力である。
それに従わない場合、国は強制力を持って対処する。
暴力と法、この二つは国家を維持するために
必要不可欠な要素である。


掟の門には、この二つがある。
「通ってはならない」という法、
そして無断で通れば門番の暴力が待っている。
この門は初めから通ることができない門だったのである。
そして門番は明かす。この門はお前のためのものだ、と。
自分のための門?

では掟(Gesetz)とは
宗教でいう「戒律」ということなのだろうか?
カフカはユダヤ人だ。戒律はユダヤの神が定めたもの。
ユダヤの神ヤハゥエの戒律は絶対的暴力によって下される。
それは理不尽に、
理由なくおとずれる落雷のようなものである。

『変身』や『審判』で主人公にもたらされる理不尽な事態は、
掟の門の存在のように、
すでに物語の中で決定的位置を占めている。
男はそれに抗おうと奔走するが、
あえなく挫折することになる。
『変身』も、『審判』も、
(そして『審判』のなかに出てくる「掟の門」の寓話も)
この戒律から解放されることなく、物語を終える。

この物語は一体我々に何をもたらすというのだろうか?
気がかりなのは、この男が臨終の床で語った、
誰もこの門を通ろうとしなかったことである。
掟の門はこの男のためのものだった。
では他のもののための掟の門もある
ということなのだろうか?

掟の門は最後に閉じられる。
この門が男のためのものなのだから、
門はその役目を終え、永劫閉じられることだろう。
門番は通ってはならぬと戒めた。
その言葉が真実かどうかはわからない。
だが男はそれを信じたわけではなかった。
信じたのは男の強さ=暴力にである。

理不尽な暴力。
我々に信じられるのはそれだけなのだろうか。
だがそれに立ち向かう勇気は、ついぞ現れなかった。
現実に抗うすべはないのだろうか?

カフカの短編を読むと、
いつもそのことを考えさせられてしまう。
[PR]
by jaro050 | 2005-10-03 23:41 | 雑記
<< hoogerbruggeってな... ローリー >>