横浜トリエンナーレ

昨晩急に友人の編集者が「横トリにいこう」とメールを打ってきたので、今日の予定を繰り下げて横浜に行ってきた。横トリのついでに、夕方に開かれるartscape10周年記念イベントもあるというので、Bankart1929にも寄ってみることに。






横浜「トリエンナーレ」(3年に一度の意)と言いつつも4年越しになってしまった本展、相当のイワクがあるのは以前から知っていましたが、それを加味しても「お祭り」の域を出ないように感じた。お祭り、つまり「美大の学園祭」ということ。みんなほんとがんばったよ。○○なんかほとんど家に帰ってなかったんだよ。分かります。大変だったでしょうね。それは十分に伝わってきた。だけどいざ見る側に立つと、雑然と配置された作品群が無造作に置かれているように思えて、とても「鑑賞」するという気持ちになれなかった。いや、むしろこれは展覧会じゃなく、お祭りなんだと考えればそれでいいのかもしれない。目いっぱい参加して、卓球やったり射的すりゃいいじゃん(あ、でもあの射的は「作品」だから触れなかったんだっけ)。恋人たちがデートに使うにはちょうど合っている。男二人で行ったのが間違いだったのか?

そんな中、ダニエル・ビュランやインゴ・ギュンターの作品がよく見えてしまったのは、それだけのクオリティが他の作品になかったからなのかもしれない。よくよく考えてみれば、前回の横トリは4人の専門的なディレクターが作家を選定するという合議により成り立っていたから、集められたアーティストはどれもマーケットに出ている者で占められていたように思う。マーケットは市場原理があるし、負の側面も多く持ってはいるものの、裏を返せばその場にあがってくるアーティストは「マーケットに耐えうる質を有している」ということになる。コンセプトは野心的。だけどその分クオリティは下がります、じゃとても困ったことになる。美大の学祭に見えたのは、そんな側面をいくつも見てしまったからなのかもしれない。

だけどコンセプトも野心的だっただろうか?振り返ってみて、まずそれが頭に浮かぶ。そのコンセプトを評価していたのは市原研太郎氏だった。これはBankartで開かれたトークショーでの話である。市原氏は前回を引き合いに出し、今回が「アートサーカス」というテーマのもとに各作品が統一感を持って展示されていることに、一定の賛辞を述べていた。彼は本展に70点という点数を付ける。70点、ちょっと高すぎやしないか?ある問題提起をして、それに応えようとするアーティストの存在がもっと欲しかった、ということで30点減点。でもその問題提起に応える姿勢、って当たり前のような気がする。それがなかったら作品は作品として成立しない。アートサーカスの副題、「日常からの跳躍」に対して「アートはそもそも日常からかけ離れているものじゃないか」と同語反復を指摘していたけれど、市原氏の減点基準もまた、同語反復的になっていたように思う。

なんにせよ、コンセプトを確認しにもう一度横浜に出向いてみてもいいかもしれない。一回程度じゃあの有象無象は体感できないということか。
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by jaro050 | 2005-11-06 02:52 | 展覧会報
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