DR9、拘束と解放(M.B.S.D.3)

世の中分からないことだらけだけど、これだけはいえる。
「億劫」は人々の可能性を奪っている。
メールの返信でもそうだし、人と会うこと、生活のリズムさえもこの心理状態があらゆる蓋然性を消し去っている。
といいつつ、僕もまたその亡霊にとり憑かれている一人なのはいうまでもない。このブログの更新も滞りがちだし、なんといってもマシュー・バーニーの記事を書こうとしてシリーズタイトルまでつけておきながら、いまだに2件に止まっている。

…言い訳はこの辺にしておいて、現在渋谷のシネマライズでマシュー・バーニーの映画「拘束のドローイング9」が上映中ということで、久々にシリーズを復活してみようかと。

8月に金沢で見て以来半年がたつわけで、ここでは記憶とメモ書きをもとに映画をまとめつつ、少しバーニーについて考えてみたい。





この映画はまず捕鯨船が舞台となっている。バーニーが日本での展覧会を機に、日本の民俗誌的調査を行い制作した、というのはすでにご存知の方も多いと思う。この映画の要点は三つある。日本という場所性を重視したことがひとつ。そこから捕鯨という日本の伝統、かつ政治問題をも視野にいれることが二つ目。そして第三に、シリーズのテーマである「拘束」と、今回はさらにそこからの「解放」を主題化すること。以上三点を軸としながら、バーニー独自の解釈で複数の物語を形成している。

物語を一から述べるにはあまりにも時間がたちすぎているし、物語といっても商業映画のように筋が分かりやすくまとまっているわけでもないので、ここではキーワードを並べる事からはじめてみたい。

阿波踊り、捕鯨船、伊勢神宮、オグンの神(包丁の神)、出島、海女と真珠、竜涎香、鯨料理、茶室、茶器、婚礼の儀、等々。

これらの要素が各シーンにふんだんに盛り込まれており、そのひとつひとつに民俗誌的な意味合いがこめられている。分野的に疎いので、正確に把握できないのが歯がゆいが、分かる範囲で見ていこう。

たとえば阿波踊りは盆踊りに共通する供養の意味、つまり魂を送り出す儀式。捕鯨船は西洋人と日本人が遭遇する出島に見立てられており(といってもバーニー、ビョークともに日本人ではないんだが…)、そこで二人が出会い、茶室で婚礼の儀を執り行う。異様な衣装(陸の哺乳類を示す毛皮が使用されている)、異様な儀式(茶器は貝殻など海の素材)を経て、儀式は終了する。

やがて日も暮れ、海は嵐によって荒れ狂うようになる。激しい嵐は船内に海水を呼び込み、水かさは増す一方。狭い茶室に取り残された二人は水位の上がるなかで、何を血迷ったか契りを交わした刀で互いの足を切り合うのだ。しかも悠長に接吻なんかしたりして。足を消失した二人は、最後のシーンで二頭の鯨に変身し、海へと還ってゆく。つまり、陸に拘束されていた哺乳類が、互いの愛を認め合い、解放へと向かうわけだ。

その間に、象徴的に挟み込まれる巨大なワセリンの構造物。楕円形に一本の帯が食い込む形状をした、バーニーがよく用いるシンボルで、その輪郭の鉄枠にワセリンを流し込んで作られている。主人公二人のエピソードの間に、この構造物の制作から解体までのプロセスが挟み込まれて象徴を完成する。

拘束と解放。この二つのテーマは身体、特に筋肉の発達過程を示しており、かつキリスト教の宗教構造を示してもいる。バーニーのこうした基本概念を日本にあてはめるときに、彼は必要な象徴体系を寄せ集めたようだ。

展覧会の会場では、「拘束のドローイング」全11作が各フロアに展示されていた。初期は写真かドキュメントとしての映像のみが残っており、そのどれもがバーニー自身に負荷をかけてデッサンを描いている(ゴム状の拘束具をつけて部屋の端に木炭でデッサンする、もしくは斜めのトランポリンを使って天井にドローイングをする、など)。

その後、年を経るごとにクレマスターの要素が強くなってくる。つまり、特殊メイクを施してサテュロスに扮した役者が(おそらく一人はバーニーだろう)自らの尻尾を追い掛け回すようなビデオ作品になってくるのだ。身体の器具による拘束、もしくは変身によりハンディキャップを背負い、自由に動かない身体にあらがう。こうした拘束のテーマは8まで続き、映画「9」で解放のシーンが描かれた後、再び10,11ではハンディキャップを背負い拘束に戻ってゆく。拘束と解放、破壊と創造が交互に訪れて、永遠回帰を繰り返す。

b0041761_11313100.jpgさて、こうしたテーマはひとまず理解できたとしよう。ではそこにいたる表現はどうか。映画に限って言えば、それはあまりにも「過剰演出」である。クレマスター=バーニーであるだけに、「9」はそれまで培った特殊メイク、映像技術の粋を凝らして制作されたであろうことはわかる。だが、それだけに「慣れすぎている」。まるでアートの領域におけるハリウッド映画を見ているようだ。ビョークの参入はそれに拍車をかけてしまった。彼の妻であることが、愛をきっかけに解放されるテーマに必要不可欠だったのだろうが、それではあまりにも手前味噌だ。彼らの夫婦生活に観衆が感情移入してしまって、逆に作品として映画を見られない。実際僕は映画を見ていて不快感すら感じてしまったほどだ(それ以上に、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」で一挙にビョークが嫌いになってしまった経緯があるからなのだが…)。

彼の取り上げるテーマに異論を差し挟むつもりはない。でももし、このテーマで他の作家が扱ったら・・・(無論そんな作家はいない、ということも十分あるのだが)と思うと、バーニーよりもそっちの方が興味をそそられるだろう。そう、全体として、今回の「9」はどこか腑に落ちない。それは彼らがアーティストである、しかもアーティストのなかでもスター的存在である、という事実に、少々天狗になっているせいなのかもしれない。
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by jaro050 | 2006-02-28 02:20 | 美術寸評
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