自由に泳ぎまわる人:ヴォルフガング・ティルマンス

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「ティルマンスっておしゃれだよね」。ある知り合いがそういった。たしかにおしゃれかもしれない。彼の写真には性的なものがあふれているのに、ドロドロとしたものは感じられないからだ。身の回りの風景を撮っているのもその理由のひとつだが、質的に『relax』に載ってもおかしくないような「緩さ(ゆるさ)」がある。

これに拍車をかけているのは音楽との関連だろう。彼はテクノに関心を示し、ビデオ・インスタレーションではクラブの照明に焦点を当てて、テクノ・ミュージックにのせてランダムに動く反射鏡の様子を撮り続けている。そんな彼が注目されだしたのは90年代に入ってからで、彼の写真が掲載されたのは大半が音楽雑誌だった。今回の個展でも、掲載されているのは美術雑誌や写真雑誌だけではなく、タワーレコードのフリーペーパーなどにもティルマンスの名前が躍っている。





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音楽との関連性を言えば、椹木野衣の 『シュミレーショニズム』がまず思い浮かぶ。サンプリング・カットアップ・リミックスの三つの分類で言えば、展覧会はカットアップ形式をとっている。テクノ・ミュージックはリミックスの構造を持っているから、およそ80年代のシュミレーショニズムに関連していなくもないが、状況的な雰囲気が漂うばかりでティルマンスの手法に根深く関与しているわけではない。

(椹木氏はハウス・ミュージックでリミックスを語っているが、テクノとハウスはデトロイトとシカゴのクラブ・シーンでそれぞれ用いられた言葉で、決定的な違いはない)


ではいったい何がそうさせるのか。おそらくここにはシュミレーショニズムを含む80年代的な空気を漂わせた膨大なイメージの残留物が、ティルマンスの写真には滞留しているからだろう。そういった意味でサンプリングでありカットアップでありリミックスではある。彼にいくつもの影響を及ぼしたのは80年代という時代だった。椹木氏に従って、シュミレーショニズムがレヴィ・ストロースの「ブリコラージュ」に近接しているとするならば、ティルマンスの写真にもそうした混交の思想が息づいていることは明らかだ。

だが、彼の写真にはブリコラージュ特有の錬金術的な「いかがわしさ」や「奇怪さ」は感じられない。すでに彼が注目を集めだした時には、90年代的な情報過多の荒波に浮遊する「イノセンス」が顔をのぞかせている。ヒエラルキーはすでになく、ただホワイトキューブの壁にゆらりと浮かんでいる膨大な量のイメージ。

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この「イノセンス」故に、ティルマンスが同性愛者かどうかという同定はこの際あまり意味を成さない。写真には性的な隠喩が満ち溢れているが、通常見せるような機能を果たしていないからだ。それは性を暴くわけでもなく、暴力が提示されるわけではない。それゆえこの展覧会に来る前に見たピカソとは異質だった。つまり、エロスはあれど、タナトス(死)がないのだ。服のしわに執着しているとはいえ、そこにはただ性の象徴が浮遊しているのみで、死まで向かうことはない。これはゲイのユートピア、いや、しがらみもみな漂白され、ただ痕跡として残るヘテロトピア(混在郷)と言ったほうが正確かもしれない。

一般的に言われるように、写真はファイン・アートに比べて創造行為と判断するには微妙なものがついて回る。それ故撮影者が選択するにしても、きわめて繊細で、壊れやすい感覚が表b0041761_16551453.jpg層で漂っている。この表層に浮かんだもの、写真が何かの指示対象(この写真はヒトラーだ、と特定されるもの)ではなく、自由に想像させる表層のイメージなのだとしたら、彼の言う「人生を受け入れ、多様性を受け入れる」というポストモダン的な発言も理解できる。

彼が服のしわや、水にたらしたインクの広がりを撮影するのも、表層というものがイメージを誘発し、イメージが我々を繋ぐものと考えているからなのだろう。ただ、あくまで表層的で触れば壊れるようなこの感覚を強固にしてくれるほどのものをなかなか感じ取ることができなかったのも事実である。ユートピアは幾度となく人々から見放されてきた。ティルマンスのユートピアもその一群にまぎれてしまうのか、判断のつきかねるところである。
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by jaro050 | 2004-10-25 17:00 | 展覧会報
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