リオタール、「最初の噴出」、プロセス

鉛筆で文章を書くことは何らかの痕跡を残すことで、記号として紙の表面に留まり続ける。同じように、キャンバスに絵具をのせる行為もまた、その色をのせた、その時の痕跡をキャンバス上にとどめ、維持する。つまり「出現時の状態へと向けられた、記憶のしるし」であり、現在は発生当時の最良の状態・意図から徐々に色あせ、朽ちていく過程である。従ってそれらの作品を収蔵し、保存する美術館は「死にゆく作品たちの墓場」ということになる。

しかし、ジャン・フランソワ・リオタールはこの意見に懐疑的だ。彼はあまりにもプラトン的な形而上学をはらんでいる理念、絵画の下書きや小説の草稿を重視するような、制作当時の「最初の噴出」を批判しようとする。

「はじめの情況と想定されるようなものとは〈無関係に〉、たとえば、アトリエでの情況、「最初の」下書きのときの情況、さらには、芸術家の持ち得た「最初の」構想のときの情況などとは〈無関係に〉、美術館としての諸作品の情況を受け取ることです」。

ただ彼の提言は「否定」ではなく、「批判」としていることが味噌だ。なぜならば、「最初の噴出」自体を否定してしまったなら、作品が作家から完全に分離し、無名の表象になってしまうからだ。リオタールはそこまで言っていない。その極地に限りなく近いところまでいって初めて、因習的な作家第一主義を払拭することができるという意図があるのだ。

「あるものが文化的であるのは、それが展示されているから、つまり、書き込まれている、「書かれている」からなのです」。

こうした主張をより強固にするために、彼は色彩の問題を持ち出す。色彩は、どのように見えるかという問題を最初からはらんでいるために、本当は文脈の環境から逃れているという。例えば幼児に太陽を描くように勧めると、観たままの色、すなわち白のクレヨン(もしくは黄色かもしれない)で太陽を描くが、年齢を経るごとに子供たちは赤で太陽を描き始める。「太陽=赤」という固定観念を社会生活の中で身につけることで、私たちは色に「名」を与えているのである。それは色名の種類が国ごとに違うことでも明らかだ。

色彩は環境によって変化し、この変化は精神の武装解除を要請する。美術館で作品を見るときも、意図や陰謀を宙吊りにした状態で、作品を鑑賞することが重要だとリオタールは述べるのである。


リオタールの話は以上のようなものだった。以後はこの話を少し跳躍的に考えてみたい。



今私がここで記述していること、それはブログのデータとしてサーバーに保存され、残される。この行為は文章に起こすという意味では鉛筆で書き記すこととほぼ同義だ、という具合にとりあえず言っておこう。しかし、鉛筆で書く(アナログ)行為と、タイピングによってデータとして書く(デジタル)行為は、微妙な差異があるように思える。それはメディウム(支持体)の違いである。

手で書く行為に関しては、そのまま紙に痕跡を残すことが明白だが、パソコンの場合、手はローマ字入力、もしくはかな入力によって記号をパソコンに送り、文章を表示する。この際にパソコン内部でいったいどのような処理が起こっているのか私たちは確認することができない。その文章が残っているのか、もしくは消え去っているのか、判別することは難しいのだ。

それはアナログとデジタルの性質にも見ることができる。アナログとはアナロジー(類似)と語源を一にしているが、アナログの記号は、およそ類似関係を私たち人間が認識することによって判別している。例えばアルファベットの「I」は数字の「1」と形態的に似ているが、それを混同しないのは私たちが文脈から判断しているからだ。

一方、デジタルは二項対立した記号によって成立している(0,1)。だから「ある」と「ない」の多層構造によって文章が組まれ、ある理想的な構築性を確保している。ここではもう「I」と「1」の間には類似性などほとんど存在しないのだ。この独立性ゆえに、デジタルなものは転送することが容易となる。つまり、もはや支持母体(メディウム)は必要とせず、記号(信号)のみを認識するだけで、画像、さらに映像ですら再現することができる。物質的な基盤なき文章は、ネット上に流出したとき、完全に信号と化し、無名性(オリジナルなき複製)の名の下に私たちにもたらされるのである。

こうした文章は、いったい誰のものなのだろうか。「最初の噴出」自体が、いまや書き換えられてしまう可能性を持っている。さらにネット上にアップされたとき、それが無限の複製を必然的にはらんでいることも、これを助長しているといえるだろう。

引用はすでに80年代的な意味でのオリジナリティ、かつリアリティを失っている。それが露呈したのが90年代だとするならば、それすらも過ぎ去った現在の情況で、リオタールをいかに読むことができるだろうか。ポストモダン的な、決定不可能性はすでに病的なまでの増大を示している。とはいえオリジナリティの復権もまた困難であるのは自明である。

しかし、見方を変えれば、このパラドクスはそもそも近代が潜在的に持っていた病であり、ポストモダニズム自体もモダニズムの一形態として考えることができる。その二重性を肯定的に受け入れれば、作家自体が「最初の噴出」を如何に見たか――制作におけるプロセス――が重要になってくるだろう。私たち観客だけでなく、作家自身もまた意図や陰謀を宙吊りにすることで作品を制作していたとするならば、この二重性をより豊かに捉えることができるはずだ。それ故、昨今の展覧会で増えつつあるプロセスへの注目は、ポストモダンを乗り越える手がかりとして期待できるのではないか、と私は考えているのである。
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by jaro050 | 2004-11-07 23:54 | 美術寸評
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