絵画としてのお札

先日新札が登場したが、私が手に入れられたのは一万円札と千円札で、樋口一葉にまだお目にかかっていない。日本で流通しているお札は100億枚で、今回の新札発行枚数はその半分の50億枚というから、もうしばらくすれば旧札のほうが珍しいという状態になるだろう。

ところで私が新一万円札を目にしたとき、どこか小さいような印象を受けた。紙の大きさは同じ、福沢諭吉もほぼ同サイズで変わりないはすなのに。なぜだろう?この疑問にはすぐ答えが出る。単に余白の部分が多いというだけでなく、装飾の縁が以前の一万円と違って直線で切られていることによる。この効果でより紙の地から浮き出ることになる。また新札のほうがややインクが濃く、色彩が鮮やかであることもこれを助けている。

新札は明らかに絵として浮き上がっている。その時余白は絵画における額のように、絵を凝縮し、固定する。一方旧札は装飾として機能し、支持体である紙と同じ領域に留まり、余白にまでその影響を及ぼしている。この違いが発生するひとつの要因、そして最大の疑問点が、左右下方の角が完全に幾何学的な枠を示していることだ。こうした幾何学的形態は千円札にも見られることから、お札の種類を識別する記号なのかもしれない。とはいえ造形的に見れば明らかに違和感をもたらしている。まるで造形的な独立性を推進する装置のようだ。なんだかデリダの「パレルゴン」を思い起こしてしまう。

お札をつぶさに眺めてみれば、多くの発見がある。そのほとんどが偽造防止のための工夫なのだろうが、それを絵としてみたときにも、何が装飾的に見えて何が絵画的なのかという疑問を改めて突きつけられたように感じた。
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by jaro050 | 2004-11-12 13:58 | 美術寸評
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