カテゴリ:美術寸評( 32 )

DR9、拘束と解放(M.B.S.D.3)

世の中分からないことだらけだけど、これだけはいえる。
「億劫」は人々の可能性を奪っている。
メールの返信でもそうだし、人と会うこと、生活のリズムさえもこの心理状態があらゆる蓋然性を消し去っている。
といいつつ、僕もまたその亡霊にとり憑かれている一人なのはいうまでもない。このブログの更新も滞りがちだし、なんといってもマシュー・バーニーの記事を書こうとしてシリーズタイトルまでつけておきながら、いまだに2件に止まっている。

…言い訳はこの辺にしておいて、現在渋谷のシネマライズでマシュー・バーニーの映画「拘束のドローイング9」が上映中ということで、久々にシリーズを復活してみようかと。

8月に金沢で見て以来半年がたつわけで、ここでは記憶とメモ書きをもとに映画をまとめつつ、少しバーニーについて考えてみたい。

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by jaro050 | 2006-02-28 02:20 | 美術寸評

内省

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[description: スポットライトの光は壁面にオレンジの矩形を生み出し、15秒後に消失する。補完的な「残像」は同じ表面に現れる。オレンジの光の場合では、残像は青になるが、オレンジの残像を生み出す青い光源の第二作品も制作されている。それは異なった場所に、同時にあらわれることができる。(『Olafur Eliasson, Your Lighthouse: Works with 1991-2004』、ハッチェ・カンツ、2004年。なおこの作品は早川ギャラリーが所蔵している。)]

この二重に見える現象の使用を重要視する理由は、自らが見ていること〔or状態〕を見る――もしくは第三者的に自らを見ること、また実際には私たち自身から離れて、人工的な装置全体を見るという、そんな能力のことを考えているからです。主観と客観――そういった特有の質が、自らを批評する能力を私たちに与えるのです。最終的な狙いはこのことにあると私は考えています。つまり、この主題が批評的な位置を与え、この視点のなかで、自らの位置を批評する能力を与えるのです。

オラファー・エリアソン 『ダニエル・ブリンバウムとの対話』

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by jaro050 | 2006-01-08 16:41 | 美術寸評

ビル・ヴィオラの「微細なるもの」

森美術館の年間スケジュールに、ビル・ヴィオラ展が掲載された。今年10月から開催されるという。これまで注目されながらも(ビデオ・アーティストとしては巨匠にすら位置付けられているにもかかわらず)、大規模な個展が開かれることがついぞなかった。そういった意味で、今から楽しみな展覧会だ。

ビル・ヴィオラといえばスローモーションの映像を2メートル前後の大きなスクリーンに映す手法が特徴的だが、そのどれもが映像を扱っていながらも、絵画形式を踏襲している。《Nantes Tryptich(ナントの三連祭壇画)》(1992)は、三つのスクリーンに「出産する女性」「水中の男性」「死に瀕した老女」を映した映像作品だが、祭壇画という伝統形式をその下地にするという、内容と形式の齟齬(移りゆく〔エフェメラルな〕映像と、アウラを前提とした不動の宗教形式)が表されている。

動かないはずの「絵画的」人物が、数秒に一ミリという極めてゆっくりとした間隔で移動していく様は、ダグラス・ゴードンの《24時間サイコ》(ヒッチコックの「サイコ」を24時間に引き伸ばした作品)に先駆けている。それが映画だという意味で、ゴードンの作品は絵画というよりはスティル写真に相当するだろう。正確を期すれば、微妙に動くスティル写真である。

この二人の作品は、映像というジャンルが旧来のメディアに侵食していく意味で、その枠組み自体を問うものだといえるだろう。動かない映像は果たして写真なのか?トリプティックという宗教形式を用いれば、それは絵画なのか?ここでは単に絵具や薬剤をキャンバスや印画紙に乗せたり浸したりすることが問われているのではない。観者がそれを「みる」という行為に賭けられている選択なのだ。

唐突にも思えるが、上記二人の作品はロラン・バルトが「第三の意味」において述べている「意味生成性(signifiance)」に何らかの形で関わっている。「意味生成性」とは「戦艦ポチョムキン」のスティル写真で論じられたタームだが、情報伝達のレベル――指示対象としての情報(Denotation)と、象徴的なレベル――指示的な現実場面に潜む寓意(Connotation)とは別の、第三の意味として提示されている。

極度のスローモーションは、この「意味を超えた何か」を胎動するような映像で呼び込もうとしている。それは数ミリの移動の中にあらわれる微細なものとして、儚さと不動性の隙間からこちらを覗いている。二人の作品は、絵画を見る経験や写真を見る経験とはまた別の経験なのだ。

ここで強調されているのは世界がすぐさま隠蔽してしまう「身振り」であり、つかの間に過ぎ去っていく微細なものである。ビル・ヴィオラの《追憶の五重奏》(2000)は、それぞれが特徴的な5人の人物がスローモーションでいくつかの強調された表情(喜怒哀楽、等々)を浮かべる。それは「戦艦ポチョムキン」でオデッサの市民が見せる表情と重ね合わせると、極めて類似した要素を持っていることに気がつくだろう。

とはいえ、物語に抗する形での順列組み合わせ的なメディアであるスティル写真とは一線を画している。スローモーションはどんなに引き伸ばされていようとも、単線的な漸進性を有しているからだ。ロザリンド・クラウスに添う形で言えば、物語から切り離されたフォト・ノベルやコミックにこそ厳密な意味での「第三の意味」、「鈍い意味」がある。スローモーションは一方で物語性に最大限の抵抗を示しながらも、他方で静止をも拒んでいる。

この二重の抵抗こそ、メディアの境界をなし崩しにする足がかりとなる。かつ区別しておきたいのは、それはミクスト・メディアという形ではない境界の侵食だということである。安易な異種混交は民族問題でよく用いられる「サラダボール」となってしまう。ビル・ヴィオラの作品における「微細なもの」とは、「鈍い意味」を引きずりながら映画を越境していく力を有しているように、私には感じられる。
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by jaro050 | 2006-01-03 04:41 | 美術寸評

シルス

『ゲルハルト・リヒター:シルス』。1992年、スイス東南部、シルス村。険しい山脈と湖に囲まれたこの小さな村で、ささやかな展覧会が開かれた。ニーチェゆかりの地としても知られているこの場所で、ニーチェ・ハウスと呼ばれる館で開かれた展覧会は、ニーチェ、リヒター、そしてこの企画をたてたハンス・ウルリッヒ・オブリストという三人がくしくも邂逅することとなる。


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by jaro050 | 2006-01-01 03:17 | 美術寸評

「紅白梅図」のゆくえ

 結局、初見の者には関係のない話だ。それが金箔だろうが、金泥だろうが、雅な屏風であることに変わりはない。ところがこの屏風に使用された金箔が実は金箔ではなかったかもしれない、という疑義が呈されて一年余り、未だにこの論争は続いている。つい最近尾形光琳のもう一つの作品、《燕子花屏風》の調査結果は、この論争の火種を消すどころか油を注いでいるようだ。

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by jaro050 | 2005-12-14 00:43 | 美術寸評

アレゴリー消滅

 アマゾンから注文していたダグラス・ゴードンの『The VANITY of Allegory』が届いた・・・のだけれど、箱が潰れていた。しょっく。確かに紙の箱だし、上に何か重いものを乗せられて潰れたのだろう。箱とはいえ、これは展覧会カタログという書籍扱いになるから、しょうがないといえばしょうがない。だけど、なんともやりきれない!!納期が遅れただけに、アマゾンに文句言ってやりたい。

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by jaro050 | 2005-12-09 02:44 | 美術寸評

カメラの眼を持つ男

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それはカメラの眼を持つ男。
見たものを即座に記録し、焼き付ける時代の証人。
証人の証言に嘘偽りがあれば、それは偽証罪になる。
見たままに証言すること。
それがフォト・ジャーナリストの使命である。
アンドレアス・ファイニンガーの一枚《フォト・ジャーナリスト》、
それは容易く現実の加工が行われる現在の状況に、
強く訴えかける鋭い眼差しを思わせる。

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by jaro050 | 2005-12-05 22:16 | 美術寸評

日本人の建築

もしかしたら、日本の芸術界隈で今一番もりあがっているのは建築かもしれない。

b0041761_543417.jpg9月末、僕らの耳に飛び込んできたのは、仏北部ランスに建設予定のルーヴルの別館、通称「ルーブル・ランス」のコンペを妹島和世と西沢立衛の事務所「SANAA」が勝ち取り、設計担当となったというニュース。フランスでも女性が公共施設の設計をするのは初めてらしい。08年末に完工して09年に開館予定というから今から楽しみだ。そういえば先日あるギャラリーで岡部あおみさんにお会いしたときに、今注目するアーティストは、と尋ねるとまず妹島の名が出てきたのが印象的だった。確かにご主人が建築家でフランス生活が長いという事情もあったのだろうが(くわえて妹島が女性、というのもある)、それを加味しても妹島の活躍はめざましい。金沢は今年の夏に行ってみたのだが、今までの美術館のイメージからかけ離れている感じがした。円筒形の外観にキューブ状の部屋がつめ込まれている構造になっているけれど、幸か不幸か方向感覚が把握しづらくなっているようだった。とはいえ、円形ガラスの壁面は確かに美しい。中心部分の空間は、どこか植物園を思わせるものだった。

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by jaro050 | 2005-10-23 01:58 | 美術寸評

ピカソの手

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写真家ロベール・ドアノーの一枚。
《Les Pains de Picasso》(ピカソのパン)。

よく見ればすぐわかるだろう。
パンは四つ又で、まるで手のようだ。
そしてうまい具合にピカソの両腕の傍に二つ、
テーブルに直に置かれている。

そう考えると、タイトルも気になってくる。
「ピカソ“の”パン」
・・・なぜ「ピカソ“と”パン」じゃないのか?
原題のパンのつづりを「P」から「M」に替えてみると、
《Les Mains de Picasso》(ピカソの手)
となる。なるほど言葉遊びだったのか。

しかもパンのふくらみは
画家のがっしりした手をさらに強調している。
象徴的な一枚だ。ドアノーの妙技といえる。

ちなみにピカソの着ているボーダーシャツは、
セントジェームズ。
実はぼくも高校の頃着てました。
明治通りにお店がありましたが、さて今もあるかどうか。
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by jaro050 | 2005-10-21 05:31 | 美術寸評

ビデオ・データバンクとUBUWEB

美術関係でもっとも研究が困難なのは、映像資料だろう。ピカソの《アヴィニヨンの娘たち》やマティスの《ダンス》、ポロックの《No.13》とかデ・クーニングの《女》の絵画を見ようと思えば、画集やネットでいくらでも入手することができる。だがロバート・スミッソンの《ホテル・パランクェ》やヴィト・アコンチの《センターズ》、最近で言えばダグラス・ゴードンの《24時間サイコ》やマシュー・バーニーの《クレマスター》を見ようと思っても、早々簡単にはいかない。時たま開かれる上映会や展覧会でお目にかかるのがやっとという状況だ。ビデオ作品は映画のように全国上映してくれないし、著作権の関係で市販されることもまれだ。ビデオ・アート研究が一向に増えないのもそうした事情がある。

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by jaro050 | 2005-10-07 18:24 | 美術寸評