カテゴリ:展覧会報( 16 )

写真の現在

 今日はたまっている仕事を片付けられないまま、書評の仕事のため(と個人的理由)から、東近美の「ドイツ写真の現在」展に行ってきました。同時に「アウグスト・ザンダー」展もあわせて鑑賞。「ドイツ写真」というジャンルがあるわけではないけれど、ベッヒャー・シューレ(派)は確実にドイツを代表する動向として認識されている。今美術はドイツが熱い。そう言っても過言ではないほど、ドイツ人の、もしくはドイツ出身のアーティストが活躍している。

 試しにファイドンから出ている『アート・ナウ』に登場するアーティストの出身を眺めてみると、かなりの数ドイツ人の名が挙がる。確かにこの本にはヨーロッパ人至上主義という性格がついて回るので必ずしも当てにはならないが(アジアはアラーキーと森真理子の二人のみ)、そのヨーロッパの中でもこれほどドイツ人が名を連ねるのも珍しい。いや、もっと驚くべきはフランス人アーティストの少なさのほうかもしれない。廉価版『アートナウ』にはなんとフランス人が一人しかいない!もしこれから美術の勉強をするなら、英語に加えてドイツ語をやっておくと大変重宝するかもしれない。もちろん長所・短所はあるけれど。

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by jaro050 | 2005-11-27 02:02 | 展覧会報

横浜トリエンナーレ

昨晩急に友人の編集者が「横トリにいこう」とメールを打ってきたので、今日の予定を繰り下げて横浜に行ってきた。横トリのついでに、夕方に開かれるartscape10周年記念イベントもあるというので、Bankart1929にも寄ってみることに。

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by jaro050 | 2005-11-06 02:52 | 展覧会報

東京トランスファー02

困ったこと、その2。
杉本博司にやられてしまったこと。
久しぶりに「感動」させられてしまった。
今日の予定では最後に訪れた展覧会だったが、
ポルケよりこちらが数倍楽しめた。

この「感動」が一つ目の「困ったこと」に繋がっている。
ほぼ「カタログ・レゾネ」に近い展覧会カタログ(367頁、6000円!!)を買ってしまったのだ。なんたるトンマ。ポルケなど買わずともよかったのだ。
ああ来月のカード支払いが怖くて見られない…。

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by jaro050 | 2005-10-30 05:02 | 展覧会報

東京トランスファー01

困ったことが二つある。
一つは状況的なもので、もう一つは感覚的なものだ。

今日は足掛け4つの展覧会を駆け巡った。そのうち二つは会期終了直前の「駆け込み」。本当はもっと時間のゆとりを持って観るべきなんだけれど、相変わらずの出不精が祟った。こんな強制力がなければ人を美術に向けるのは難しい、ということなのかもしれない。人とはもちろん僕のことである。

今日のスケジュールは以下の通り。
1.ジグマー・ポルケ展 上野の森美術館、上野
2.仕事の打ち合わせ、上野
3.奥村雄樹「Transfer」展 Hiromi Yoshii Five、六本木
4.さわひらき展 オオタファインアーツ、六本木
5.杉本博司展 森美術館、六本木

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by jaro050 | 2005-10-30 01:01 | 展覧会報

港千尋展

新宿、Photographers'Galleryで、港千尋さんの展覧会が開かれている。タイトルは「Augustine Bataille explosion#1:Entoptic and Ecstasy」。「オーギュスティーヌ、バタイユ爆発」その一:内在光学とエクスタシー(恍惚) ・・・?

b0041761_3351718.jpgタイトルはひとまず置くとして、今回の展覧会の概要を少し描写してみたい。フランスに今もあるサルペトリエール総合病院、ここは19世紀には4千人の精神病患者が収容されていた。その患者の一人であるオーギュスティーヌ嬢を撮った写真を中心とした、いわゆる狂気に陥った人たちの写真群と、港さんが今も撮りつづけているフランスの洞窟壁画の写真がギャラリーの二つの部屋に別々に展示されている。至ってシンプルな展示方法だろう。問題はなぜこの二種類の写真群が今回の展示で結び付けられたのか、ということだ。ここが港さんのうまいところである。

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by jaro050 | 2005-10-27 03:35 | 展覧会報

ローリー

ICCに行くのは結構久しぶりだった。確か「EAT」展以来だっただろうか。その日が「ローリー・アンダーソン」展の最終日で、きっとあと10年ぐらいはお目にかかれないだろうと重い腰を上げました。次のときは彼女亡くなっていなければいいけど…。

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ローリー・アンダーソンは1947年生まれのアメリカのアーティスト。パフォーマー、ミュージシャンでもあるいわゆる80年代の「ポップ・スター」だ。70年代はゴードン・マッタ=クラークなんかともつるんでコンセプチュアル系の音響作品を作っていたけれど、80年に「オー・スーパーマン」という曲がイギリスでヒットして、一躍メディアに躍り出た。とはいえこの曲も大衆受けするような内容じゃないし、8分という長さも普通のポップ・ミュージックでは異例のことだった。つねに片足は現代美術につっこんだまま、作品を作っていった作家というわけだ。

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by jaro050 | 2005-10-03 19:35 | 展覧会報

アジアのキュビスム展

会場を後に第一声、タイトルの強制力のすごさを実感した展覧会だった。

この展覧会に赴いた人の誰もが抱くように、「アジアにキュビスムなんてあるのか」という疑問は御多分にもれずあった。昨年2月に開かれた非公開国際シンポジウムに参加したこともあって、「アジアのキュビスム」展出展作品は開催以前からいくつか見ていたし、その経験から「展覧会ではキュビスムのことは一切抜きで作品を見よう」と心に決めていた。にも拘らず、不思議と各作品にキュビスムの跡をたどっている自分に何度も遭遇することになってしまった。おそらくキュビスムの痕跡は少なからずあるにせよ、それを除いても作品個々で固有の面白さを持っているはずなのだが、一度こびりついたイメージは拭いがたく、その執拗につきまとう様はイメージ・コロニアリズム(植民地主義)を思わせた。ヨーゼフ・ボイス、ドナルド・ジャッドしかり、作家の多くがスクール(流派)に属したがらないという意味を改めて実感した、といったところか。

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by jaro050 | 2005-08-26 05:26 | 展覧会報

ルーヴル美術館展

横浜で開催中の「ルーヴル美術館展」に行ってきました。幾度となく開かれてきたルーヴル展だけど、今回はまさに典型的なルーヴル展だった。19世紀の新古典主義からロマン派にかけての絵画作品で構成されており、ルーヴルがフランス近代文化の象徴となる一翼を担った画家が勢ぞろいしている。アングル、ダヴィッド、ドラクロワ、ジェリコー、ドラローシュ、フラゴナール、コロー、ミレー…。

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by jaro050 | 2005-05-30 21:49 | 展覧会報

ゴッホ展

昨日ようやくゴッホ展に行ってきました。GW中は異常な混雑ぶりで入れなかったので(何せ1時間以上も待たなければ入れない!)、一週間ずらし、念のため夜に行きました。それでも人はたくさんいたし、《夜のカフェテラス》の前では人だかりで背伸びをしなければ見れないほどでしたよ。

今回の展覧会はゴッホ美術館とクレラー=ミュラー美術館のゴッホコレクションが日本に巡回に来ていたもので、代表作はもちろんたくさんあるんだけど、総出品数から言ったらそれほど多くは感じられなかった。ざっと見て回るとあっという間に出口に到着してしまいました。

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展覧会の内容はゴッホ美術館が出品しているだけあって、作品の周辺資料がたくさん展示されていました。《開かれた聖書のある静物》ではモチーフとなったゴッホの父の大判聖書が来ていて、ゴッホがどんな視点で描いたのかを検証することができます。近美のお得意の「研究論文的」展覧会という側面がでていましたね。

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面白かったのは、静物にしても風景にしても、ゴッホの個物に対する異様な関心を感じさせた作品がいくつかあったこと。ハイデガーが注目して論争にまでなった木靴の作品や、麦畑に生える麦をかなり近くまでクローズアップして描いている作品(画面全体が麦なので、まるで抽象絵画のよう)など、その視点が斬新で、本当に19世紀末に描いたんだろうかと疑うほどでした。でも多分そのせいで世間から無視されていたのかもしれませんけどね。

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ゴッホ展を出る頃にはもう閉館間近だったんですが、駆け足で常設展を見て回りました。もうここの常設展は20回近く見ているんですが、たまにしか出でこない所蔵作品があるかも、と企画展を見に来たときは作品だけでも確認します。昨日はゲルハルト・リヒターの《アブストラクト・ペインティング》がありました。これが今回の収穫。

次の企画は小林古径だって。どっかからチケットもらったら行ってみよ。
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by jaro050 | 2005-05-16 02:27 | 展覧会報

エイヤ=リーサ・アハティラ ―物語と映画

物語はラプラスの悪魔を呼び寄せる。
厳密に構成された物語であればあるほど、そうである。

ラプラスの悪魔――それは全ての物理法則を把握し、あらゆる物質の量、運動を瞬時に計算しつくしてしまう魔力を持っている。この悪魔の視点に立てば、宇宙の動静を過不足なく予知することができるという。いわば古典物理学が生み出した予定調和の神である。

ときに物語は初まりと終わりの構造を持っている。物語である以上、この構造抜きにしては成立し得ないとさえ言っても問題はないだろう。さらに「よい物語」とは、始まりからすでにいくつかの意味を内包しつつ、予言的にフィナーレに向かって高潮していく形を有している、と誰もが一度は思い描くはずだ。「なに一つとして無意味な描写は存在しない」と。物語作者は物語を組み立てる作業において、言葉や文字が象徴的に機能するように選択し、筋書きに組み込んでゆく。そのとき物語作者は、ラプラスの悪魔の住処を知らず知らずに建てているのである。

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前置きが長くなってしまったが、先日森美術館の「ストーリーテラーズ」展に出品されていたエイヤ=リーサ・アハティラの映画は、そんな閉塞した「大きな物語」の構造に亀裂を入れる手法をこころみていたように感じられた。「物語」というテーマで集められたこの展覧会の出品作家(特に映像作家)の多くが「円環する物語」を描いていただけに、彼女の存在がひときわ目立っていたように思えたのだ。彼女は物語の構造にマルチヴィジョンという不確定原理を組み込むことで、ラプラスの悪魔に抵抗している。

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[エイヤ=リーサ・アハティラ《コンソレーション・サービス》 1999年]

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by jaro050 | 2005-05-04 18:38 | 展覧会報