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言葉の綾

「あの絵について、幾人かの通人があれこれ談論風発するなかで、私は思案投げ首、姑息な所思すら考え付かず、ただただ切歯扼腕の思いでした――」

こんな文章誰も書かないし、用法があっているのかも定かじゃないけれど、知り合いが使っていた用語を組み合わせて作ってみました。

そういえば少し前に筑紫哲也が最近の言葉使いについて、用法を間違えて使っているというのはまだまだ良いほうで、その言葉自体を知らない人が増えているということのほうが問題ではないか、と言ってました。

知らない、ということが罪である時代は随分前に廃れてしまった観がある。一般的に必読書というものがあって、それを読んでいない人は白い目で見られるというような風潮は、今ほとんどない。

とはいえ、知りたいという欲求自体はまだまだ衰えていないように思う。ただ、手っ取り早く知りたいという考えに代わっているのだけど。上の慣用句も、グーグルで検索すればすぐ出てくるし、あらすじ本や要約本がベストセラーになるこの時代、知りたいものはなんでもすぐ手に入るのだ。

しかし、なんだか身についていない。たとえばあるレポートをネット検索で引っかかった文章のつぎはぎでまとめても、ぜんぜんその内容を説明できないことがよくある。

卑近な例でいくつもバリエーションを提示できてこそ理解したといえるのであって、コピー&ペーストは思考そのものが停止してしまっている。上で作った文章も、単なるつぎはぎでしかなく、普段使えるようになるまでにはかなりの訓練が必要だろう。

ただし、文章特有の言葉を会話に持ち込むのは、ちょっと無理があるんじゃないか、とも思うけど。
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by jaro050 | 2004-11-30 22:13 | 雑記

ドラクエ

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そういえば昨日はドラクエ8の発売日だったようで。テレビを見て思い出した。うわぁ~堀井雄二老けたなぁ。昔の髪ふさふさの頃は、あのサングラスの下に隠された目の隈に、シナリオライターの多忙ぶりを思って恐怖したもんだ。

今回は500万本の大台目指して快調な売り上げを見せているという。まだ売れるんですね、ドラクエ。最近の鳥山明の絵がいやなんだよなぁ。主人公は何でいつもターバン巻いてるんだろう。そしてボスは何でアゴ出てるんだろう・・・。(一方FFはボスがいつも巨大化するのはなぜだろう。DQのボスは支配欲(世界は私のものだ!)が強く、FFのボスは破壊欲(世界を無に帰す!)が強い。モダニズムとポストモダニズムみたいだ。そんな両者がいまや同じ会社で作られているなんて、なんだか象徴的で面白い)

徹夜組も毎度のごとくいたようです。私も小学生の頃並んだ記憶があるんで人のこといえないんですけどね。友人が玩具店の駐車場にテント張って待機していて、そこに一緒に泊まりました。なんだかキャンプ気分で楽しかったなぁ。整理券が朝6時ごろ配られ、特別に8時に開店したお店で新品の箱を受け取ったときの、小学生だから感じられたあの感動。今では後で安くなってから買えばよかったのに…とも思います。でもあの頃はほしいものを買うために自転車で数十キロ、4市か5市くらいを一日中めぐったこともあったし、あの執念は今じゃ絶対出せない。どこいったんだろう、あの集中力は・・・。

それにしても最近の徹夜組は大人ばっかりだなぁ。堀井雄二が出席していたイベント会場に登場した、前日からいる一番乗りの人物(24歳)、人前に出るなんて、私にはできません。
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by jaro050 | 2004-11-28 19:08 | 雑記

ユシチェンコ変貌

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毒物か、ストレスか――。ウクライナの大統領選で抗議行動を続けるユシチェンコ元首相の顔が短期間に様変わりした原因について、英メディアが医学的見地から様々な推測を展開している。陣営側は対立候補のヤヌコビッチ首相側が情報機関を使って毒殺を企てたとの陰謀説を流しているが、真相は闇の中だ。【朝日新聞11月27日夕刊】

おお!ぜんぜん違うじゃんか!同じ人物?!4月の写真はなんだかダンディなジェントルマンだけど、現在は白髪も出来物も普通の現れ方じゃない。この顔見たら確かに陰謀説疑うのも当然だ。インディペンデント紙はダイオキシンを飲食物に混入されたのでは、って言ってます。今月10日にはウィーンの病院に担ぎ込まれているみたいだし、なんだか怖い話になってきた。ダイオキシンを混入されると、顔がこんな状態になるのか!?先日ユシチェンコ氏の血液が今アメリカの研究機関に送られて検査されているそうだから、もうすぐ真相が分かるというが、何だろう、いったい。クワバラ桑原。
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by jaro050 | 2004-11-27 23:20 | 時事

mise en abyme

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昨日家に帰ると、ポストに郵便物が入っていた。注文していた書籍が届いたようだ。

ルシアン・デーレンバック(ドイツ語ならデーレンバッハかな)『Le récit spéculaire: essai sur la mise en abyme』の英訳。

この人なんかドイツ人ぽい名前なんだけど、イタリアのジェノバ大学でフランス近代文学を教えてるそうです。

本書の内容は批評用語「mise en abyme」についての研究書。

この用語はたいていの場合、「合わせ鏡の入れ子構造」の事を指していて、たとえば登場人物が作者の投影として表現されているなど、いくつか例がある。

映画では、タルコフスキーの『ノスタルギア』にこの表現方法が指摘されている。

ただ、デーレンバックはこの用語がかなり多様な使われ方をして錯綜しているために、その出自と使用法を再度検討する必要がある、と述べている。本書執筆の動機がこれだ。

本書の面白いところは、この構造を単なる批評用語としてだけでなく、美術作品の表現にもそれを確認しているところだろう。

「mise en abyme」は、アンドレ・ジッドが1891年ごろ発見したというが、ジッドがそれを説明しているのは、16世紀のクエンティン・マサイスという画家の作品に描かれた凸型の鏡について。この本の表紙はそのマサイスの作品を載せている。

デーレンバックはこの他、ファン・エイクの婚礼の作品に描かれた鏡や、ベラスケスの《ラス・メニーナス》の鏡に言及しながら、この用語の構造を分析している。

非常に面白そうな本です。落ち着いたら熟読してみたい。

追記: 後で調べてみたら、なんか邦訳されているみたいです。ありな書房から『鏡の物語』として。がーん。
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by jaro050 | 2004-11-23 18:02 | 美術寸評

巨匠たちの再会

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ちょっと心和む写真を。もうすでに若手とは言いがたいある画家を介して、二人の巨匠が再会を果たした場面だ。

左がジョアン・ミロ、右がアンドレ・マッソン、その間にいる人物がフランシス・ベイコン。

再会を喜び手を差し伸べるミロのこの表情、なんとも感慨深い。このときミロ78歳、マッソン75歳、そしてベイコン62歳。

1971年パリのグラン・パレでは、フランシス・ベイコンのフランス初の大回顧展が開かれていた。

その場には、オープニング・レセプション出席のために集まった各国・各界から著名人がこのイギリスの画家を迎えている。

この当時、グラン・パレで紹介されたイギリスの画家はターナーしかいなかったというから、現代の画家がフランスでここまで迎え入れられるのは異例のことだったようだ。

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しかしベイコン本人は、大変な苦難に見舞われていた。恋人であるジョージ・ダイアーが、オープニングを前にして自殺してしまったのだ。

ベイコンがオープニングの準備に追われている間、アルコール中毒を患い、極度の精神状態だったダイアーは、大量のブランデーと睡眠薬を飲み、ホテルの自室にあるトイレで崩れるように死んでいた。

この事件後、旧知の仲であるレリス夫妻に何度かレセプション中止を提案されたが、ベイコンはイギリスからの多くの訪問団を無碍にすることを危惧して、オープニングに臨んだ。

この写真に写るベイコンは一見自らの成功に浴しているようにみえる。

しかし、どこにも焦点があっていない彼の視線を見ると、その胸中を推測してしまうのだ。

その後彼は仕事量が激減したことからも、その衝撃は大きかったに違いない。
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by jaro050 | 2004-11-21 23:23 | 美術寸評

ベイコンとドゥルーズ

b0041761_2034812.jpg邦訳されたドゥルーズの絵画論「フランシス・ベイコン:感覚の論理」が出版されて数ヶ月がたつ。美術手帖でも書評が書かれ、にわかに話題になっている本書について、感想を述べてみたい。

フェリックス・ガタリとの共著という形での著作発表から、独自の哲学を再開する端緒となった、一般的にドゥルーズ後期とよばれる時代の幕開けは81年出版の本書だった。80年代は基本的にイマージュ論が中心であり、本書の後に全二巻の『シネマ』、北方バロックとライプニッツの哲学を接続した『襞』という具合に展開されていく。ただドゥルーズ哲学を一望すると、この頃の著作は今まで論じてきた彼の論理をイマージュから実践する場となっており、そういった意味で具体的作品が論じられるところに彼の哲学の真価を問うという性格を帯びていたように感じられる。

このように見たときに、本書は美術書であると同時に、ドゥルーズの関心に基づいたベイコン論といえるだろう。それゆえ本書の作品分析を詳細に見ていく限りでは、必ずしもベイコンの絵画原理を完全に捉え切れていたとは言いがたい。この点がよくドゥルーズが批判される点なのかもしれない。作品を形式論的に読解し、外部性を垣間見させることなく強固な体系を作り上げることに長けていたドゥルーズは、実はシステマティックに作り上げられていたベイコン作品の側面、特に60年代以降の諸要素を論じている。

b0041761_20212663.jpgだがその外部性を示唆することなく論じきるところに、ドゥルーズの卓越さを感じさせるのである。ドゥルーズが本書を書いた81年の段階で、ベイコンのフォーマルな分析はジョン・ラッセルの研究以外ほとんど見当たらなかっただろう。その頃のベイコン研究はバイオグラフィカルな言説に満ち溢れていたし、議論の中心はいまだ暗い色面の50年代に占められていた。そんな状況の中、本書のような分析が行われたというのは驚くべきことだ。うわさでは、ドゥルーズはベイコンの絵画を数点持っていたという。だとしたら、この分析は日々目にしてきた絵画体験に基づいて引き出されたものだったのではないだろうか。
 

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by jaro050 | 2004-11-19 19:59 | 美術寸評

久々のピアソラ

b0041761_1792115.jpg久々にピアソラを聴いた。「アディオス・ノニーノ」のジャケットにはバンドネオンを担ぎ、しかめ面で蛇腹を広げるピアソラの姿が写っている。なんだか渋い。ピアソラはタンゴにジャズや現代音楽の要素を組み合わせて、ダンス・ミュージック以上の「聴かせる音楽」を確立したが、タンゴの2ビートをきちんと守っているところがいい。この可変反復がバロック音楽に通じていると言われている。というとドゥルーズの『差異と反復』やバロック論『襞』なんかを思い出させるけど、そこまで高尚にしてしまうとピアソラのいい部分が死んじゃうような気がするので示唆する程度に。
とにかく秋はピアソラがいいな。
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by jaro050 | 2004-11-15 17:27 | 雑記

うつらうつら

なんだか今日は気分がどんよりしていて、何かしたのかしてないのかよく分からなくなっているので、ちょっと列記してみる。

1. 「w.ベンヤミンの触覚概念と近代の視覚現象について」を読む

2. 「ロバート・スミッソンの〈スパイラル・ジェティ〉をめぐる問題」を読む

3. 「装飾と反復」を読む

4. 『ドゥルーズ ノマドロジー』の一部分をまとめる+関連図版収集

5. Arthur・C・Danto,Embodied Meanings を読み途中

なんかぜんぜん進んでいない感じがする・・・。

五項目の内訳
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by jaro050 | 2004-11-14 23:17 | 雑記

絵画としてのお札

先日新札が登場したが、私が手に入れられたのは一万円札と千円札で、樋口一葉にまだお目にかかっていない。日本で流通しているお札は100億枚で、今回の新札発行枚数はその半分の50億枚というから、もうしばらくすれば旧札のほうが珍しいという状態になるだろう。

ところで私が新一万円札を目にしたとき、どこか小さいような印象を受けた。紙の大きさは同じ、福沢諭吉もほぼ同サイズで変わりないはすなのに。なぜだろう?この疑問にはすぐ答えが出る。単に余白の部分が多いというだけでなく、装飾の縁が以前の一万円と違って直線で切られていることによる。この効果でより紙の地から浮き出ることになる。また新札のほうがややインクが濃く、色彩が鮮やかであることもこれを助けている。

新札は明らかに絵として浮き上がっている。その時余白は絵画における額のように、絵を凝縮し、固定する。一方旧札は装飾として機能し、支持体である紙と同じ領域に留まり、余白にまでその影響を及ぼしている。この違いが発生するひとつの要因、そして最大の疑問点が、左右下方の角が完全に幾何学的な枠を示していることだ。こうした幾何学的形態は千円札にも見られることから、お札の種類を識別する記号なのかもしれない。とはいえ造形的に見れば明らかに違和感をもたらしている。まるで造形的な独立性を推進する装置のようだ。なんだかデリダの「パレルゴン」を思い起こしてしまう。

お札をつぶさに眺めてみれば、多くの発見がある。そのほとんどが偽造防止のための工夫なのだろうが、それを絵としてみたときにも、何が装飾的に見えて何が絵画的なのかという疑問を改めて突きつけられたように感じた。
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by jaro050 | 2004-11-12 13:58 | 美術寸評

リオタール、「最初の噴出」、プロセス

鉛筆で文章を書くことは何らかの痕跡を残すことで、記号として紙の表面に留まり続ける。同じように、キャンバスに絵具をのせる行為もまた、その色をのせた、その時の痕跡をキャンバス上にとどめ、維持する。つまり「出現時の状態へと向けられた、記憶のしるし」であり、現在は発生当時の最良の状態・意図から徐々に色あせ、朽ちていく過程である。従ってそれらの作品を収蔵し、保存する美術館は「死にゆく作品たちの墓場」ということになる。

しかし、ジャン・フランソワ・リオタールはこの意見に懐疑的だ。彼はあまりにもプラトン的な形而上学をはらんでいる理念、絵画の下書きや小説の草稿を重視するような、制作当時の「最初の噴出」を批判しようとする。

「はじめの情況と想定されるようなものとは〈無関係に〉、たとえば、アトリエでの情況、「最初の」下書きのときの情況、さらには、芸術家の持ち得た「最初の」構想のときの情況などとは〈無関係に〉、美術館としての諸作品の情況を受け取ることです」。

ただ彼の提言は「否定」ではなく、「批判」としていることが味噌だ。なぜならば、「最初の噴出」自体を否定してしまったなら、作品が作家から完全に分離し、無名の表象になってしまうからだ。リオタールはそこまで言っていない。その極地に限りなく近いところまでいって初めて、因習的な作家第一主義を払拭することができるという意図があるのだ。

「あるものが文化的であるのは、それが展示されているから、つまり、書き込まれている、「書かれている」からなのです」。

こうした主張をより強固にするために、彼は色彩の問題を持ち出す。色彩は、どのように見えるかという問題を最初からはらんでいるために、本当は文脈の環境から逃れているという。例えば幼児に太陽を描くように勧めると、観たままの色、すなわち白のクレヨン(もしくは黄色かもしれない)で太陽を描くが、年齢を経るごとに子供たちは赤で太陽を描き始める。「太陽=赤」という固定観念を社会生活の中で身につけることで、私たちは色に「名」を与えているのである。それは色名の種類が国ごとに違うことでも明らかだ。

色彩は環境によって変化し、この変化は精神の武装解除を要請する。美術館で作品を見るときも、意図や陰謀を宙吊りにした状態で、作品を鑑賞することが重要だとリオタールは述べるのである。


リオタールの話は以上のようなものだった。以後はこの話を少し跳躍的に考えてみたい。

補論を読む
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by jaro050 | 2004-11-07 23:54 | 美術寸評