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深読みアート美術館

b0041761_2474546.jpg六耀社から出版されている『深読みアート美術館』。著者はロバート・カミングという人物で、彼の経歴は多彩だ。そのなかでも三つの経歴をあげればある程度彼の人となりがわかるかもしれない。

まず法律と商取引の業界に短期間だが携わった後、ケンブリッジで美術史を学び、テート・ギャラリーに勤める。そして78年にはオークション最大手のクリスティーズで教育部門を立ち上げた。つまり美術を字義通りに「飯のたねにする」人なのだ。それゆえ本書は細かい議論抜きに、アーティストと作品を商品サンプルのごとく短い文章で簡潔に述べている。

例えばマティスの評価を見てみよう。私は以前マティスの塗りムラについてもう少し知りたいと考えていたが、彼はそのことについてコメントしている。

「マティスの作品は、色彩をつめ込んだり、並べたり、コントラストを強めたり、弱めたり、純化したり、激したり、鎮めたりして、色彩のあらゆる可能性を探求している。鮮やかな色彩の周囲にあいた余白を見つけてほしい。こうした余白は、色彩に「呼吸」をさせ、色彩の持つ視覚的な潜在能力を十分に発揮させている。荒いタッチは色彩に動きと生命を与え、マティス自身の存在と行為を記録するよう計算されているのだ。どのような単純化も見せかけに過ぎない。マティスが考え抜き、改めていった結果、ようやく到達した境地なのである」

なるほど、呼吸のリズムを生み出すためなのか、と納得。ただこの文章だけでは具体的なことが分からないので、ほかの文献を読まなければならないが、マティスを知る上でのライトモチーフぐらいは描き出すことができる。そういった意味で良書といえるだろう。

しかし作家の量が膨大であるだけに、関心の少ない作家に関しては極めてそっけない意見しか述べられていない。これは当然起こりえることで、少々残念な部分だ。本書のような網羅的な解説書は、数人で執筆するのがベストではないかと思う。

それを差し引いても、この本の独自性といえば、作家ごとのオークション最高落札価格(2000年度以前)が載っていることだ。さすがクリスティーズ社員。美術史上だけでなく、市場でどれほどの評価を得ているのかを知ることができる。たとえばパブロ・ピカソの最高落札価格の作品は1901-2年作《腕を交差させた女》で、5560万ドル(日本円=59億7130万)。ピカソの美術史での評価はもっぱらキュビスムを始めた(1908年から第一次大戦期あたりまで)ことだが、オークション市場では多少異なっていることがわかる。

このほかに絵画の主題・物語解説や用語解説が後半部分でリスト化されている。ハンドブックというにはちょっと重いかもしれないが、海外に行く際に持っていれば何かと重宝する本だろう。ただし、イギリス人の本であるだけに、アジアの作家についてはほとんど載っていない。このことが市場原理というものを如実に示しているようで考えさせられてしまう。
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by jaro050 | 2004-11-07 03:42 | 美術寸評

ザオ・ウーキー展

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縁あって美術関係のある企業に面接に行った帰りに、ブリジストン美術館に寄っていきました。本当は画廊めぐりなどをしてみたいところでしたが、少々疲れていた(そして恥ずかしながら慣れない革靴に靴擦れしていたため)ブリジストン美術館にしました。

今やっていたのは「ザオ・ウーキー展」。フランスの現代画家だが、生まれは北京、つまり東洋人。漢字で「趙無極」と書くそうだ(アナーキーっぽい)。ほかではあまりお目にかかることがない作家だが、今回は初期から現在の作品までを体系的に展示した回顧展形式をとっていて、ウーキーを知るにはもってこいの展覧会。

私自身もあまり作品を見たことがないので、この際何の知識もなく見てみることに。まず初期の絵画に感じたのが「クレーの影響を受けているのでは」と思わせる幾何学的に構成された形象(特に《さわぎく》に似た人物像がいた)。マチエールもまたクレーの厚紙のざらついた表面が酷似している。さらに文字が画面の上でいつしか解体していくような奔放なカリグラフィー。おそらくクレーから影響を受けているはずだ、と予想してみる。
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第二点は、やはり東洋人という性格からか、水墨画を意識した黒の筆致はアンリ・ミショーを想起させる。ミショーの墨絵は極めて抽象的なイメージをもたらしているものの、よくよく見てみるとそれが人物(群集)を示しているかのように太い線が躍動感を持っています。しかし、50年代を過ぎる頃のウーキーの線描には、そういった形象性があまり感じられない。むしろ木々ではないのかと思う。

そう考えると、ウーキーの絵画は実は風景を抽象していったときに残った残照に見えてくる。それも多くは近視眼的な風景だ。広大な大洋を眺めたあとにふと足元を見たときの、あの浜辺の風景。もしくはほの暗い洞穴の岩壁に灯るたいまつの火。しかし近寄れば近寄るほど、それは近視眼ではなく鳥瞰図のように上空からの風景に転換する。
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順を追ってウーキーの変遷を見ていくと、70年代を過ぎるとここでトリプティック(三連画)の形式が現れだす(確か76年の作品だった)。これには少々驚いた。まさかここでトリプティックに出会うとは。切り離された三つのキャンバスはそれぞれが独立を保ちつつも、相互に影響しあうように筆致は連続している。この作品を見ながら、「現代美術に応用されたトリプティックを集めてみるのも面白いかもしれない」と考えた。

トリプティックが現代においてそれほど使われなかったのに対し、ディプティック(二連画)は頻繁に使用されたフォームだった。何故かといえば、ディプティックはその間の空間に不在の効果を見ることができるために、現代美術特有の哲学が存在しているからだ。通常見落としがちだが、シンメトリーの構図もまた、鏡像関係ということでこの不在の原理が働いている。いうまでもなく、鏡は現代美術で頻繁に登場する装置なのだ。

対してトリプティックに見られる効果は「リズム」だった。この形式は真ん中のパネルがその中心的舞台となる。それゆえ中世以来宗教的形式として多用されていた。例えばモンドリアンはその効果を神智学という方向で解釈したが、ウーキーはそういった使い方をしていない。三枚のパネルというよりも、むしろ二つの分割に意識が向かっているようだ。だから画面はひとつの絵画として筆致が連続している。

ウーキーはこのトリプティックでいったい何がしたかったのか。ただ画面を大きくしたいのなら、完全につなげてしまえばいい。そういった作品は彼の作品の中にすでにあった。考えられるとすれば、日本や中国にある障壁画としての絵画を想定していたのかもしれない。そうだとしたら、これはどのような働きを示すのか。少し考えてみたいテーマではある。
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by jaro050 | 2004-11-04 23:28 | 展覧会報