画家たちの饗宴
2007-03-06T00:33:38+09:00
jaro050
美術に関する寸評をたらたらと。
Excite Blog
情(アフェクト)と動物
http://jaro.exblog.jp/6566120/
2007-03-06T00:17:00+09:00
2007-03-06T00:33:38+09:00
2007-03-06T00:17:02+09:00
jaro050
未分類
けれどもちょっと考えてみれば、あなたがそれ自体として、あなた自身ゆえに愛されているのではないことがわかるはずだ。
動物において情の対象になっているのは、
あなたの立場なのであって、
あなたのプシュケ(心・魂)ではない。
ロラン・バルト「1979年2月10日の講義」より
言いえて妙ですが、バルトはその後「情的なものと愛情深いものを区別すること」と言っています。動物への愛情ではなく、動物に備わった情それ自体としての、という意味で。
立場への情かもしれない、ただ、それでも人は動物と共に生きている。]]>
フェイク
http://jaro.exblog.jp/6525406/
2007-02-24T22:20:16+09:00
2007-02-24T22:20:16+09:00
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jaro050
未分類
そして不穏だ。
生前の形状は残しながら、だがももうその再生は叶わない。
リビングデッドを「生かしている」ものとは何か?
写真は必ず後ろ向きの指向性を持っている。だがその指向性は、表象されている対象であることに注意しなければならない。写真は死である、もしくはよく叫ばれる「写真の死」というのはナンセンスだ。写真はもうとっくに死んでいる。だが指差しているその写真はいまだそこにあり、リビングデッドとして巷を徘徊している。
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気概です。
http://jaro.exblog.jp/6204535/
2006-12-17T17:56:14+09:00
2006-12-17T17:56:14+09:00
2006-12-17T17:56:14+09:00
jaro050
雑記
判断力と下準備がものをいう。「決断は2分で決めろ」なんてある啓発本には書いてあったりするが、実はプロは1分で決める。直観の部分は大きいんだろうけど、そんな観念的な直観などではなく、やはり準備と経験に裏打ちされた直観なのだと思う。地道な努力の積み重ねですな…言うは安し、行うは難し。
どうもこんなこと書くより、動くしかないようです。いやはや精進精進。
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アイドル?
http://jaro.exblog.jp/6198362/
2006-12-16T05:06:00+09:00
2006-12-16T05:09:25+09:00
2006-12-16T05:06:00+09:00
jaro050
雑記
最近はシャープのCMにも登場していて、そのことに「シャープは小百合をおとしめた」などと言う人も少なからずいるが(直接批判の場に立ち会ったこともあるけれど)、僕はそんなことにあまり興味がない。生涯映画女優だという気概は、別にテレビに映っちゃいけないというわけじゃない。宣言後にNHKの番組にだって出ているし、今更シャープのCMに出ようが出まいが関係ないのだ。
じゃあアイドルなのか?と言えば、「サユリスト」なる言葉も残っているくらいなので、初期アイドルにくくれるといえばくくれる。実を言うとアイドルなるものに感情移入したことがない性分なので、その求心力にいささか疑問を感じたりもする。僕が子供の頃、アイドルは歌を歌うのがすでに基本となっていたけれど、大方は音痴で、服装は奇抜、かつ夢見がちで、そんな姿に嫌悪したこともあった。そういう意味ならまだ吉永小百合はいい。だって歌を歌わなかったから。
とどのつまりは、僕はアイドルというより、バブリーな80年代が嫌いなのだ。
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ブラームス
http://jaro.exblog.jp/6109698/
2006-11-28T09:13:00+09:00
2006-11-29T22:51:03+09:00
2006-11-28T09:13:36+09:00
jaro050
未分類
でもこのアルバムは好きだ。
先日、以前からとても懇意にしてもらっていた人が亡くなった。あまりにも突然のことで、今でも確かなことなのかが分からない。
僕は確かにあの人を尊敬していた。誰が誰とどんな関係になろうと、あの人への敬意は変らないだろう。それ故に、もっともっと、いろんなお話をしたかった。最近のことも、何かと報告したかった。あの人形師にお会いしたんですよ、とか、あの小説家の酒好きは噂以上です、など、お会いしていなかった1年以上の間、僕は彼女に話す話題を溜め込んでいた。
山がお好きだったのは知っていた。本当は皆で登りに行きたいと思っていた。頻繁にお会いできていたときに、一言「今度行きませんか」と誘えばよかったんだ。でも多々事情が重なって、そうもいえなかったことは事実だ。今はもはや一人で登るしかない。でも、どこか登ってみようかとも思う。
認めてほしいとまでは言えないけれど、代わりに話を聞いてほしかったんですよ。まだまだ若輩者でいろんな人に迷惑かけるけれど、それなりに頑張ってます。どうか向こうでもお元気で。]]>
Nineteen-Ninety Five
http://jaro.exblog.jp/5735701/
2006-09-22T22:17:00+09:00
2006-09-22T22:19:56+09:00
2006-09-22T22:17:55+09:00
jaro050
雑記
核心ではつながっている。そう思うのは、「00年代(ゼロゼロ・ジェネレーション)」というくくりが今ひとつ判然としないことに関わっている。たぶん9.11という大きな出来事(とメディアに印象付けられているもの)が、ひとつのディケードのうちであまりにも早くやってきたことに起因しているんだろう。
日本から見て、89年に冷戦構造が崩壊し、その後バブルがはじけ、社会構造に対する危機感として表出したのが95年だったとすれば、この世紀末的不安感を湛えた90年代の終わりは2001年、同時多発テロだった。ではその後は?5年たっても、まだうまく説明することが出来ない。僕個人としては、来年、つまり2007年に何か起こるような気がしているが(それは6年おきという単純計算でもあるのだが)、あまり予言的なものを考えるのはよそう。
ともかく、個人的体験において最も重要だったのは95年だ。一体この年に何が起きたのか?事後的に整理された記憶も含めて、公私にわたっていくつか挙げてみると…
戦後50年
阪神大震災
地下鉄サリン事件以下一連のオウム騒動
愛犬家殺人事件の犯人逮捕(犯人の店は高校のすぐそばだった)
デジタルカメラの普及
「女の子写真」が流行
Windows95の発売
『新世紀エヴァンゲリオン』放送開始
フランス、シラク大統領の就任&核実験強行
全日空機ハイジャック事件
村山首相、アジア諸国に植民地支配と侵略を謝罪
沖縄米兵少女暴行事件
小室ファミリー全盛期
藤原伊織『テロリストのパラソル』
公立校で土曜隔週休日実施
プリクラ発売
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嫌いになることと「幕末」のつぼ
http://jaro.exblog.jp/5584886/
2006-08-30T01:08:00+09:00
2006-08-30T12:14:33+09:00
2006-08-30T12:08:00+09:00
jaro050
未分類
この言葉を女の子から、特に十代の子からよく耳にする。
自分が好きであること以上に、相手が自分を好いてくれること以上に、
嫌われるということの恐怖にみな怯えているようだ。
自分の手から逃れていく孤独感、
去っていくのではという猜疑心、
去られる自分への嫌悪感。
それとは別に、「幕末」マニアが女の子の中に結構いることに気がついた。
知り合いに一人いるのだが、その子が特別なんだとばかり思っていた。
だが、ある筋によると、「基本中の基本」らしい。そうなのか・・・。
総合すると、ストイックに何かを守りとおし全うするというスタイル、
決して離れないという理想に少女たちははまる、のか?
それとたぶんギムナジウムのような環境による同性愛的な、あれ。
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カオス・シチリア物語
http://jaro.exblog.jp/5524187/
2006-08-21T00:23:39+09:00
2006-08-21T00:23:39+09:00
2006-08-21T00:23:39+09:00
jaro050
その他
教えてくれた先輩たちは昔からずっとこの映画のことを絶賛していて、そんな映画があるのかとは思いつつ、ついタイトルを忘れたり聞いたことすら忘れたりで、おぼろげになっていた記憶が、先日ふとした瞬間に復活。というわけで観たいのです。]]>
学会と名古屋路
http://jaro.exblog.jp/4944748/
2006-06-07T17:45:51+09:00
2006-06-07T17:45:51+09:00
2006-06-07T17:45:51+09:00
jaro050
雑記
どちらもでてみよう、か。
そういえば美学会東部大会、名古屋路で行きそびれた。
名古屋といえば、愛知曼荼羅。
東松さんは、お元気そうだった。
風邪引いたというのは本当だろうか、とおもうくらいに。]]>
くじら構文
http://jaro.exblog.jp/4346777/
2006-04-07T02:13:14+09:00
2006-04-07T02:13:14+09:00
2006-04-07T02:13:14+09:00
jaro050
雑記
A whale is no more a fish than a horse is.
別に構文自体が分からないんじゃないんです。例文が分からないんです。「馬が魚じゃないように、くじらは魚ではない」。ここで馬とくじらが比べられているのがどうしても納得いかなかった。
たぶんこれは範疇論の問題なんだろうけど、くじらが魚の形状に類似しているにもかかわらず「哺乳類」であることを、私たちは予め知識として知っている。だから馬と比較されても問題がないんだろう。
だけど、「馬が魚じゃないように」という具体例をあげていることからすると、どうもくじらが魚じゃないことを知らない人に、わかりやすく説明しているように聞こえる。少なくとも中学生の私にはそう聞こえた。前提を知らない人に、馬とくじらを並べて「ほら、魚じゃないでしょ」と言ったところで納得するだろうか?
一体誰が最初にくじらと馬の例文をつくったんだろう。そして何でそれが「くじら構文」と言われるほど定着したんだろう。これはいまだに謎です。]]>
ロボットとアニメの関係
http://jaro.exblog.jp/4305414/
2006-03-27T07:24:08+09:00
2006-03-27T07:24:08+09:00
2006-03-27T07:24:08+09:00
jaro050
雑記
でも今問題にしたいのは、じゃあ現実にロボットを作った場合にはどうなるの?ということ。私のいとこはロボット工学を専攻していて、今ロボット開発の会社で働いているんですが(彼女は大学で空圧制御のプログラムを組んでフルートを吹く人型ロボットを開発していました)、そんな姿を見ているだけに、よくSF小説などで登場する高度に発達したロボットが存在する世界よりも、それがいかに作られるかってところに、手塚治虫なんかを読んでいて思っていたわけです。
アニメはその開発部分をすっとばして都合のよい活躍部分(もしくは暴走)を描いているわけだけど、そんな中でも開発に関するところも若干採り上げている。第一にロボットが人型である理由について。ここを経ないと、その後の制御系の話が意味を成さなくなってしまう。
人間に奉仕するためなら別に人型である必然性はそれほどない。実際米軍のロボット開発が人型を採用していないところをみると、より現実味を欠いていることになる。それを説明するために、ガンダムではミノフスキー粒子によってレーダーが使用不能となって、白兵戦の必要性が高まった事を理由に挙げているが、それと人型にすることとはなんら関係がない。近未来を描いた攻殻機動隊ですら、人型はサイボーグかアンドロイドで、ロボットと呼びうるものには蜘蛛の形状が使われていた(タチコマなど)。かといってパワード・スーツ的な発想にしてはあまりに巨大すぎて格好の的になるのがおちだ(およそ19mで、当時の最新鋭戦闘機F14の全長にあやかっているという。これはマクロスに引き継がれて、実際にF14戦闘機の形状をもっていた)。その点ではボトムズ(4m)やパトレイバー(8m)の方がまだ現実味があるんだろう。
仮説として、『イノセンス』でも取り扱われていた、人間の完成形としての理想像をロボットに重ね合わせているというのはどうだろう。ガンダムも戦争という目的に焦点を当てたがために人型の必然性が薄れたが、理想型としての人型ロボットなら、それほど違和感はない。いや、理想型と限定せずとも、人の模倣、人間との類縁性のほうが、より説得力があるか。たとえばエヴァンゲリオンは「汎用人型決戦兵器」と名指されていたが、それは来襲する使徒と同じ存在であり、さらに人間もまた同様の補完されるべき存在だった。一方エウレカセブンでは未知の生命体スカブ・コーラルの生み出したLFOが、人間との対話を求めるためのコミュニケーション・ツールであり、そのために人型をしていた。上記の二つがより人間に近づいた、ひとつのキャラクターとして「意志」を持っていたのは示唆的だ。
さて人型であることはこれくらいにして、人型であるためにはどうすればいいのか。頭部、両手両足、そして胴体があって、歩き、手を使って作業をすること。その前提を支えているのはひとえに「立つこと」だ。立たなければ手が使えないし、人型である意味はない。つまり、姿勢制御システムの開発は人型にとって最も重要な位置を占めている。ホンダやソニーのロボット開発の要がここにあったし、バランスは作業における臨機応変な対応に欠かすことができない。この部分を細かく描写したのがパトレイバー。最初の多足歩行式大型マニピュレーターである「レイバー90」の開発が可能となったのも、重量の機体を維持するだけの姿勢制御システムを完成させたことに端を発しているという設定は、他のロボットものに比べて無理がない。
学習型のOSを搭載し、操縦者の力量次第で操作性が向上することからも、制御システムは人間をベースに開発された上で、さらに人間の操作によって補完するプログラムとなっているようだ。これは暴走したレイバーとの格闘に際して転倒しないため、また近隣の民家を巻き込まないためには必要なプログラムと言えるだろう。そのために暗躍するシャフト・エンタープライズの内海が、データを収集する目的で三機の軍事用レイバー「ブロッケン」を盗み出しもした。戦争に使用された場合でも、転倒する(ある地点で停止する)ことが敗因に繋がりかねない。つまり人間と一緒だということだ。一方ガンダムでは宇宙も舞台になっているので、専用の姿勢制御ブースター(アポジモーターと呼ばれる)がついている。これがなければ一定の方向に進むことすらできない。
ちなみに経済産業省の要請で財団法人製造科学技術センター(MSTC)で2004年に開発された人型ロボット「HRP-2」は、パトレイバーをモデルにしているという。開発部のスタッフがファンだったことからパトレイバーのメカニック・デザインを担当した出渕裕がデザインで参画している。
つぎに手の制御システム。手の動作を描写したシーンは多いようで、実はそれほどでもない。ロボットが人を手に乗せるシーンは多々あれ(「Z」でのアムロを回収するシーンなど)、指先まで動かしているのはまれだ。それはコックピットの中を見れば自ずと知れる。指先まで動かす指令系統が存在していないのだ。たいていは戦闘機に用いられるレバーで、上昇・下降、旋回に特化した操作器具である。そもそもマニピュレーターとして設計されていないのは人型にしては不自然ですらある。ガンダムシリーズではほぼすべての作品で戦闘機型レバーが使用されており(サイコミュ、およびGガンダムは例外)、他のアニメでもこの事実は変わらないだろう。予想できるのはある一定の動作パターンを設定された指令系統が別にあり、そこで操作しているというもの。たとえばビームサーベルを取る動作、ハッチの開閉の際に使用するボタンを押す動作、人を乗せる際の動作、などなど。
特異な例は、先にも挙げたパトレイバー。学習型OSは指先の動作にも反映され、モーション・トレーサーがあやとりなど細かい作業も可能にしている。両手の指に操作グラブをはめて、まさしく人の動きをトレースすることで動かすわけだ。ただし学習機能は個人の癖まで読み取ってしまうために、複数のパイロットが使用するときには障害となってしまう場合がある。指先までの描写はないものの、ガンダムのスタッフたちが作ったショートフィルムの中では、Mk.Ⅱを操縦するカミーユが操縦テストの際に個人的癖の話をしていることから、描写されていない部分で指先を操作している可能性はある。また、一風変わったコックピットの描写は、マクロスセブンのギター式操縦桿。果たしてどんな仕組みになっているのか・・・??
コックピットの描写にかけてはアニメ以上に精巧なつくりをみせたのが、ゲームの領域である。その中でも特筆に値するのはカプコンから発売されたシュミレーションゲーム、『鉄騎』。あくまで操縦のリアルさを追及した本作は実際にコックピットでロボットを操縦している感覚を存分に味わうことができる反面、過剰にリアルさを追求したがために本当に乗り物酔いをしてしまうユーザーが続出した。ミッションも難易度が高く、クリアできないのが当たり前のように周囲で語られた経緯がある。その点パトレイバーに近い要素を持っている。主人公、泉野明(いずみ・のあ)は乗り物酔いしないために研修をパスしたことがコミック第一巻でそれとなく描かれている。
ほかにもコックピットの映像伝達、変形・合体、機体の素材等まだまだ話すこといっぱいですが、今回はこの辺で。
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DR9、拘束と解放(M.B.S.D.3)
http://jaro.exblog.jp/4207285/
2006-02-28T02:20:00+09:00
2006-02-28T11:06:18+09:00
2006-02-28T10:18:30+09:00
jaro050
美術寸評
「億劫」は人々の可能性を奪っている。
メールの返信でもそうだし、人と会うこと、生活のリズムさえもこの心理状態があらゆる蓋然性を消し去っている。
といいつつ、僕もまたその亡霊にとり憑かれている一人なのはいうまでもない。このブログの更新も滞りがちだし、なんといってもマシュー・バーニーの記事を書こうとしてシリーズタイトルまでつけておきながら、いまだに2件に止まっている。
…言い訳はこの辺にしておいて、現在渋谷のシネマライズでマシュー・バーニーの映画「拘束のドローイング9」が上映中ということで、久々にシリーズを復活してみようかと。
8月に金沢で見て以来半年がたつわけで、ここでは記憶とメモ書きをもとに映画をまとめつつ、少しバーニーについて考えてみたい。
この映画はまず捕鯨船が舞台となっている。バーニーが日本での展覧会を機に、日本の民俗誌的調査を行い制作した、というのはすでにご存知の方も多いと思う。この映画の要点は三つある。日本という場所性を重視したことがひとつ。そこから捕鯨という日本の伝統、かつ政治問題をも視野にいれることが二つ目。そして第三に、シリーズのテーマである「拘束」と、今回はさらにそこからの「解放」を主題化すること。以上三点を軸としながら、バーニー独自の解釈で複数の物語を形成している。
物語を一から述べるにはあまりにも時間がたちすぎているし、物語といっても商業映画のように筋が分かりやすくまとまっているわけでもないので、ここではキーワードを並べる事からはじめてみたい。
阿波踊り、捕鯨船、伊勢神宮、オグンの神(包丁の神)、出島、海女と真珠、竜涎香、鯨料理、茶室、茶器、婚礼の儀、等々。
これらの要素が各シーンにふんだんに盛り込まれており、そのひとつひとつに民俗誌的な意味合いがこめられている。分野的に疎いので、正確に把握できないのが歯がゆいが、分かる範囲で見ていこう。
たとえば阿波踊りは盆踊りに共通する供養の意味、つまり魂を送り出す儀式。捕鯨船は西洋人と日本人が遭遇する出島に見立てられており(といってもバーニー、ビョークともに日本人ではないんだが…)、そこで二人が出会い、茶室で婚礼の儀を執り行う。異様な衣装(陸の哺乳類を示す毛皮が使用されている)、異様な儀式(茶器は貝殻など海の素材)を経て、儀式は終了する。
やがて日も暮れ、海は嵐によって荒れ狂うようになる。激しい嵐は船内に海水を呼び込み、水かさは増す一方。狭い茶室に取り残された二人は水位の上がるなかで、何を血迷ったか契りを交わした刀で互いの足を切り合うのだ。しかも悠長に接吻なんかしたりして。足を消失した二人は、最後のシーンで二頭の鯨に変身し、海へと還ってゆく。つまり、陸に拘束されていた哺乳類が、互いの愛を認め合い、解放へと向かうわけだ。
その間に、象徴的に挟み込まれる巨大なワセリンの構造物。楕円形に一本の帯が食い込む形状をした、バーニーがよく用いるシンボルで、その輪郭の鉄枠にワセリンを流し込んで作られている。主人公二人のエピソードの間に、この構造物の制作から解体までのプロセスが挟み込まれて象徴を完成する。
拘束と解放。この二つのテーマは身体、特に筋肉の発達過程を示しており、かつキリスト教の宗教構造を示してもいる。バーニーのこうした基本概念を日本にあてはめるときに、彼は必要な象徴体系を寄せ集めたようだ。
展覧会の会場では、「拘束のドローイング」全11作が各フロアに展示されていた。初期は写真かドキュメントとしての映像のみが残っており、そのどれもがバーニー自身に負荷をかけてデッサンを描いている(ゴム状の拘束具をつけて部屋の端に木炭でデッサンする、もしくは斜めのトランポリンを使って天井にドローイングをする、など)。
その後、年を経るごとにクレマスターの要素が強くなってくる。つまり、特殊メイクを施してサテュロスに扮した役者が(おそらく一人はバーニーだろう)自らの尻尾を追い掛け回すようなビデオ作品になってくるのだ。身体の器具による拘束、もしくは変身によりハンディキャップを背負い、自由に動かない身体にあらがう。こうした拘束のテーマは8まで続き、映画「9」で解放のシーンが描かれた後、再び10,11ではハンディキャップを背負い拘束に戻ってゆく。拘束と解放、破壊と創造が交互に訪れて、永遠回帰を繰り返す。
さて、こうしたテーマはひとまず理解できたとしよう。ではそこにいたる表現はどうか。映画に限って言えば、それはあまりにも「過剰演出」である。クレマスター=バーニーであるだけに、「9」はそれまで培った特殊メイク、映像技術の粋を凝らして制作されたであろうことはわかる。だが、それだけに「慣れすぎている」。まるでアートの領域におけるハリウッド映画を見ているようだ。ビョークの参入はそれに拍車をかけてしまった。彼の妻であることが、愛をきっかけに解放されるテーマに必要不可欠だったのだろうが、それではあまりにも手前味噌だ。彼らの夫婦生活に観衆が感情移入してしまって、逆に作品として映画を見られない。実際僕は映画を見ていて不快感すら感じてしまったほどだ(それ以上に、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」で一挙にビョークが嫌いになってしまった経緯があるからなのだが…)。
彼の取り上げるテーマに異論を差し挟むつもりはない。でももし、このテーマで他の作家が扱ったら・・・(無論そんな作家はいない、ということも十分あるのだが)と思うと、バーニーよりもそっちの方が興味をそそられるだろう。そう、全体として、今回の「9」はどこか腑に落ちない。それは彼らがアーティストである、しかもアーティストのなかでもスター的存在である、という事実に、少々天狗になっているせいなのかもしれない。]]>
mixiにあるへんな画像
http://jaro.exblog.jp/4135668/
2006-02-09T22:31:53+09:00
2006-02-09T22:31:53+09:00
2006-02-09T22:31:53+09:00
jaro050
雑記
たまにへんなgif画像に出くわす。
これがけっこう凝ってる。
そのインパクトのせいか、
参加人数は決まって5000人は超えているときている。
動画の力、か…。 ]]>
日本語のテスト
http://jaro.exblog.jp/4120411/
2006-02-06T02:21:24+09:00
2006-02-06T02:20:03+09:00
2006-02-06T02:19:43+09:00
jaro050
未分類
http://www.atok.com/nihongotest/index.html
みなさんもテストしてみてください。
ちなみに僕は・・・74点でした。びみょ~。]]>
クリティシズム覚書
http://jaro.exblog.jp/4086106/
2006-01-28T16:38:02+09:00
2006-01-28T18:53:06+09:00
2006-01-28T16:38:02+09:00
jaro050
未分類
隣接する類義語、対義語。曖昧にされたそれらの語を並べること。そうすることで、何か見えてくるものがあるかもしれない。この記事では、上記の語に関わる言葉を見つけ次第、この場に追加していこうと思う。
【批】ひ
≪広辞苑≫
1.くらべ、品定めをすること。「批評・批判・批正」
2.権力者が認定すること。「批准」
≪漢字源≫
1.{動}うつ。ふれる。(ふる)うちあたる。ふれあう。「批撃」「批逆鱗=逆鱗に批る」
2.<ヒす>{動}つきあわせて、よしあしを決める。「批評」
3.{動・名}君主や上司が、臣下から提出された文書を見てよしあしを決める。また、その判定を示した文句。「乞批=批を乞ふ」「批准」
4.{単位}公用文書や、まとまった運送荷物を数えることば。「一批(文書一通、また、品物ひと荷)」
<解字>会意兼形声。「手+(音符)比(並べる、つき合せる)」
【評】ひょう
≪広辞苑≫
善悪・可否・価値などを判断し論定すること。また、その言葉や文章。「―を書く」「批評・評論・評判・不評」
≪漢字源≫
1.<ヒョウす>(ヒャウす){動}あげつらう(あげつらふ)。いい分を平等にぶつけあう。議論をぶつけて物のよしあしを公平にさばく。訓は「あげ(挙)+つらふ(接尾語)」から。(類)平。「評議」「批評」
2.{名}議論して裁いた結果。品さだめ。「評判」「講評」「悪評」
<解字>会意兼形声。平<ヘイ>は萍<ヘイ>の源字で、浮き草の上端が一印の水面につかえてたいらにそろったさま。評は「言+(音符)平」で、ことばを平等にそろえてぶつけあうこと。
【批評】
≪広辞苑≫
物事の善悪・美醜・是非などについて評価し論ずること。「作品を――する」「文芸――」
≪テリー・イーグルトン≫
「啓蒙主義的な意味でいう「批評」criticismは、外部の、おそらくは「超越的な」視点から、状況のどこに歪みがあるかを解き明かすことで成立する」
≪岩波哲学・思想辞典≫
人間の制作した具体的な対象もしくは人間が関わりをもつ事象の特性を分析し、評価する行為の総称。鑑賞、評論、批判等の名で呼ばれる活動もこのうちに含めることができる。その対象に応じて文学批評、美術批評、文化批評、メディア批評、メタ批評等々に分類することが可能である。〔項目担当者:富山太佳夫〕
≪ドミニク・ラカプラ『歴史と批評』≫
「批評は、文学そのものの抱える諸問題と可能性――想像する芸術家の戦慄と無冠の達人の苦悩の双方をもたらす転移的関係――を、批評自身のレベルにおいて反復する」
【評論】
≪広辞苑≫
物事の価値・善悪・優劣などを批評し論ずること。また、その文章。「時事――」
【批判】
≪広辞苑≫
(criticismイギリス・Kritikドイツ)
1.批評し判定すること。ひばん。
2.人物・行為・判断・学説・作品などの価値・能力・正当性・妥当性などを評価すること。否定的内容のものをいう場合が多い。哲学では、特に認識能力の吟味を意味することがある。「強い―を浴びる」
≪テリー・イーグルトン≫
「「批判」critiqueは、内側から主体の経験にもぐりこみ、主体の現在の状況をこえたところにある「有意義な」経験を引き出そうとする言説形式である」
≪岩波哲学・思想辞典≫
この概念の源にさかのぼれば古代ギリシア語のクリーネイン(分離する、告訴する、裁くといった意味を持つ)に行き着くが、現代では学術語としては主として哲学で使われている。同一の原語に対して、批評という訳語が与えられることもあり、これは哲学上の概念としての批判と文学理論上の概念としての批評とは元来は未分のものであった事実に基づいている。哲学においてこの概念が大きな意義を有するようになったのは、カントの『純粋理性批判』(初版1781)以後のことであり、ここで哲学的意味がはっきりと文学理論でいう批評と分離し、現代の<批判的理論>にいたる哲学の内部での用法が確立した。ただし、カントが哲学にこの概念を取り入れるに当たっては、当時の批評家の用法からの影響もあったことが指摘されている。〔項目担当者:福谷茂〕
【批難】
≪広辞苑≫
欠点・過失などを責めとがめること。「当局を―する」「―を浴びる」]]>
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